ターミナルソフト等で使うフォントを何にするか、というのは、実はなかなか悩ましい。これでいいかな、と思っていても、文字幅とか読み易さとかで少々不満が残る。だから半年位で、他に何か選択肢がないか探すのが習慣化してしまった。
丁度、今はそんな時期なのだけど、『プログラミング用フォント Ricty』というページにふと目がとまった。最近流行りの合成フォントというやつで、Inconsolata と migu を合成した、いわゆる等幅フォントである。ライセンス上の問題から、フォント本体ではなく、フォント合成用のスクリプトのみが配布されている。
Inconsolata は、大抵の distro ではパッケージ化されているだろうし、TeX Live にも収録されている。migu フォントは、上記配布元から取得できる(僕の場合は最初から入れている)。さくっと合成処理を行うと……ほー。正直言ってあまり見た目が美しいとは言い難いのだが、非常に実用的なフォントである。全角空白が破線になった "○" で表示されるところといい、ソースなどで厳密に文字数を揃えるような用途を意図しているであろう作りといい、使いやすそうな印象を受けた……ので、手元のターミナルソフトと GNU Emacs のフォントをこれに変更。まあ、しばらくはこれを使ってみることにしましょうかね。
前に何度か、イターい売り文句のケーキ屋の話を書いたことがある。御記憶の方もおられると思うのだが、もう一度書こう。
大阪に住んでいた頃のことなのだが、近所に新しいケーキ屋がオープンすることになった。僕は酒飲みなのに甘いものも好きなので、機会があったら買いに行こうかなあ、などと思っていたのだが、ある日そこに通りがかったら、看板にデカデカと "Taste Of Mommy" と書かれていたのだった。
よく、こういう話をすると、いやその店やってる人が込めている心ってのがあるだろう、それを踏み躙るように嘲笑するんじゃないよ……みたいなことを言われるのだけど、いやーこれはちょっとマズいんですよ。おそらく、このお店の方は「おふくろの味」みたいなフレーズを探していて、"Taste Of Honey" からの連想で "Taste Of Mommy" と書いたんだろうと思うけど、僕の知る限り、"Mom's Taste" とか "Mother's Taste" ならそういう意味になるけれど、"Taste Of Mommy" だったら、幼児プレイ好きの mother-fucker とか、マザコンの果ての人肉嗜食者みたいな奴しか連想し得ないのだ。日本人はしばしばこの手の間違いをするけれど、これはちょっといただけないパターンだ。せめて誰かネイティブに聞いてみればよかったのに……と、今でも思う。
さて。あまり人をあげつらいたくはないのだけれど、今日の新聞に入っていたミニコミ紙をペラペラとめくっていて、妙なタイトルのコラムを発見したのだ。『エシカルでいきましょ』というタイトルなのだけど、その横に『※エシカル = 「思いやり」』と書いてある。
僕が知る限り、英語の場合は ethical = 「倫理的」であって、思いやり、などという意味で用いられたのを聞いたことがない。このコラムの筆者は JICA の関連施設で外国語での絵本を読むイベントなどを主宰されているらしいのだが……うーん。どうなんですか、それって。
僕が英語以外にかじったのはドイツ語位で、他にはラテン語の宗教関係の語彙が少し……位である。僕があまり知らないフランス語ではどうだろう……と調べたけれど、たとえば "sentiment chaleureux" とか、そんな感じになる、らしい。ラテン系の言語でも、「エシカル」という発音で「思いやり」という意味になる、という話は、残念ながら聞いたことがない。
外れていたら非常に失礼なのを、あえて書かせていただくけれど、この方は英語圏で ethical consumer とか ethical jewellery とか言うのを、何か誤解されているのではないだろうか? あの ethical というのは、社会規範を尊重するとか、(倫理的行動によって)環境に配慮する……という意味であって、「思いやり」なんてニュアンスはどこにもないのだけど。何をどうしたら、ethical という単語から「思いやり」なんて日本語に至るのだろうか。僕の勘違いだったらそれでいいけれど、どうも僕にはそうとは思えないのである。
"palliative" というのは、医学領域でよく使われる言葉である。日本語では「姑息的」というのだけど、たとえば、末期の食道がん患者に対して、がんの治療目的でなく、食事の通り道を確保する目的で手術を行うような処置のことを「姑息的処置 palliative procedure」と言う。「姑息」というと、とかく悪いイメージがつきまとうけれど、「姑息」という言葉自体にはもともと悪い意味はない。「姑」は「暫く」という意味で、「息」は「休息」と同じ、つまり「息をついて休む」という意味だから、「姑息的」は「(本質的ではないけれど)一時的な対処として」という位の意味である。
とは言うものの、「一時しのぎ」という言葉には、やはりあまりいいイメージを喚起されることはないものだろう。本質的な問題解決ができることをサボった挙句の「一時しのぎ」なんじゃないか、と考えるからだ。進行したがんと戦う医師達にしてみれば、「姑息」という言葉にそういうイメージを付加されるのはいい迷惑に違いないのだが、残念ながら、世間にはこの誤謬を定着させるに十分足るだけの数のサボリ野郎が存在するのである。
毎度おなじみ TeX フォーラムやTeX Q&A では、年が明けた頃から質問の数が急増する。その質問の多くは、概ね以下のような特徴を有する:
- 「〜に書いてあることができません」と書かれることが多い。
- 使っているシステム構成や、「うまくいかない」ことが再現される記述例が添付されない。
- 文末が、
- 以上です。失礼します。
- どうすればよいでしょう。
- よろしくお願いします。
- 一体どうすればいいのでしょうか?
- 何が原因でしょうか。お手数をお掛けいたします。
……まあ、良くて「御教授下さい」。「御教示下さい」という言葉も知らないらしい。 - 質問に対する答が出ても、阿呆な質問への苦言が出ても、半分位はそのまま質問者が消えてしまう。
なぜ、こういう質問が多発するのか。まあ、その時期を考えると何となく想像はつく。おそらく、卒論や修論(さすがに学位論文でこんな泥縄野郎はいないと思いたいのだが)で TeX / LaTeX での論文作成が義務付けられていて、年明け位に「そろそろやらないとマズい」とか思うのだろう。そして、奥村氏の『美文書作成入門』を買って、何も考えずに巻末の DVD でシステムのインストールをする。そして、迫る締切に泡を食いながら書き始めるのだろう。
こういう手合いは、統合環境があるとまず間違いなくそれに飛び付く。統合環境は確かにユーザーフレンドリーに見えるけれど、システムがユーザーに対して返すメッセージに、ユーザーの注意が行きにくくなる、という弊害がある(誤解しないでいただきたいが、これはシステムのメッセージを注意しないユーザーのせいであって、統合環境それ自身やその開発者のせいではない)。書いてある通り(と本人は信じ込んでいるだけ、ということがほとんどなのだが)にやったのにできない。自分では原因特定ができない……と、こうなるわけだ。
最近は google という便利なものがあるから、極端な話、エラーメッセージを検索欄にコピー & ペーストして検索をかけるだけでも、対処法に辿り着ける可能性が高い(同じように卒論や修論で苦しんだ先達のブログとかね)。しかし、そもそもエラーメッセージを見よう、という、その意識すら彼等にはない。「書いてある通りにした」ということが「うまくいく」という結果を保証してくれる(と彼等は信じ込んでいるわけだが)はずなのに、その結果が得られない。どこに質問(というか、彼等にしてみればクレームという意識なのかもしれないが)を投げかけたらいいのか。そうして彼等は、奥村氏の TeX Wiki 傘下のページに到達するのであろう。
しかし……大学での研究というのは、少なくとも、まだ誰もやっていないことをやる、とか、既に誰かがやったことでも、異なる着眼点からやり直す、とか、そういうことなわけで、目前の事象を解析的な眼で見つめて挙動を探り、そこに法則性を見出して理解する……そういう行為である。ほとんどの事が文書化され、google でも使えば簡単にその文書にアクセスできるようになっている TeX / LaTeX において、そういう姿勢が欠片程も窺えない、ということは、大学で研究して論文を書く、という本分において、果たしてどういうことになっているのだろうか、と、心配になってしまう。無論、僕がその心配を晴らす義理など、何もないのだけれど。