selfish people

僕はこの blog で、今迄にも何度となく、愛知県で交通絡みでヒドいめに遭ったことを書いている。僕にもこの辺の地の人達に知り合いが何人かいて、そういう人達は「まあいるよねーそういうの」とドライなコメントをくれるか「まあそう言わんでよ」と哀しそうな顔をするか、大体そんなところだ。誤解なきように書いておくが、彼等は僕が糾弾するような愚行とは縁遠い。この地の人々は、その面でちゃんとしている人とそうでない人の差があまりに著しいのだ。「ピンからキリまで」と言うけれど、この辺の人々の様を言うならば「ピンかキリか」である。間がない、と思う程に、その差は大きいのである。

しかし、そのキリの方の人々はあまりに酷い。道を歩けば平気で横に広がって道を塞ぐし、バスや地下鉄の待ちでは列を形成せず、車両が来るとこれ幸いと入口に殺到する。乗っても詰めない。当たり前のように自分の席の横に荷物を置く。他人が側で立っていても知らんぷりで、視線をやると、手元のスマホを見つめて気付かない風を装う。咳払いのひとつをしてみても、彼等の耳はイヤホンで塞がれている。

そういう連中に対して、何年も前から、僕は我慢するのを止めてしまっている。最初の頃は「すみませんが急いでいるので道をあけていただけますか」と丁寧に言っていたのだが、あまりにその手の輩が多く、またスマホのイヤホンで耳が聞こえない風を装ってシカトされるので、最近はシンプルに「邪魔だ、どけ」と言うことが多い。そう言われたとき、彼等はどうすると思います?

それは、彼等が独りか連れがいるかで異なる。独りだと「え」とか「あ」とか言って道をあける。強調しておくが「ごめんなさい」とか「すいません」とかいう言葉が出てきたことは、まあ記憶の限り一度もなかった。本当に「え」「あ」とかいう意味不明の声が聞こえるだけなのだ。で、連れがいるとどうか、というと、無言で連れの顔を見るのだ。

僕は最初、このアクションを「この行動の責任は私じゃなくてこの人にあるんですよー」とディスプレイしているものと理解していた。しかし、それはどうやら違うらしい。この行動のココロは「私だけじゃないでしょ、この人もやってるでしょ、だから私は悪くないんだ」ということらしいのだ。

僕は彼等を、ただ他者への配慮に欠けているから、他者の状況に気付かないから、という理由で糾弾しているのではない。彼等の傲慢さに対して糾弾しているのである。彼等は、この世界は自分にいいように存在している、と信じて疑わない。そして自分とその周辺に関わらないところから、自分が他者に対して都合の悪いありようをしていることを指摘されると、それを無視する。無視し切れなさそうだったら、徹底的に他の存在のせいにする。この「他の存在」というのは、生物・無生物の別なく活用される。連れがいたら連れのせいにする。スマホを見ていたから見えません、イヤホンしていたから聞こえません……本当に、彼等にとって、この世界は自分のためにだけ存在し、機能しているのだ。

まあ、端的に言うと、こういう連中を「田舎者」って言うんだよな。田舎者という言葉は、都市圏の生活で求められる暗黙のマナーに従わない輩に向けられる蔑称なわけだけど、そういう意味ではまさに彼等は「田舎者」なのである。

いや、何故またこんな話を書くかというと、先日 U がこんなことを言ったのだ。

「ガラケーがスマホになったみたいな、新しい、皆に定着するアイテムってあるのかね?」

うーん。ヒューマン・インターフェイスって、アイテムが出てくるわりには定着しないんだよなあ。おそらく、スマホの次に来るものというと……Google Glass みたいなウェアラブルなものじゃないのかねえ、と答えたのだった。で、それを口にした直後に僕の頭に浮かんだのが、

「ああ、これで三ザル完成だ」

ということだったのだ。

おそらく、この名古屋において、スマホというものが一番重宝されているのは、LINE や twitter が使えるからではなくて、それを見つめているということを理由に、他者への不寛容のエクスキューズが成立する、ということなのだと思う。実際、電車やバスで他者に不寛容な輩は、まず間違いないと言っていい程に、スマホを手にして、そこ以外見てません、見えませんというアピールを全身でしている。そして耳には、そのスマホのイヤホンを突っ込んでいるわけだ。実際には、スマホから視線を離さないというのは困難だろうけど、イヤホンは挿している限りは、周囲の物音が聞こえない、と主張できるのだろうから、これは不完全な「見ざる」、そしてほぼ完全な「聞かざる」を主張できるアイテムとして機能しているわけだ。

そして、最近はこれに加えてマスクを着用している人が多い。勿論、健康上の問題などもあると思うけれど、日常的にマスクを着用し続けている人というのは確実に増殖している。これは、自分の表情を他者に見せないという機能を発揮しているように思えてならないのだけど、これ式で言うなら「言わざる」を主張するアイテムとして機能していると言えなくもないだろう。

ここに Google Glass のようなアイテムが加わるとどうなるか。それを眼鏡の上に載せているだけで、「私の視線はここに向けられています」と主張できるわけだ。勿論 Google Glass はそんな低機能ではない。ちゃんと視野も確保できるウェアラブル・ディスプレイとして開発されているわけだけど、得てしてこの手のアイテムは、開発者の企図と社会での受け入れられようが一致するとは限らないものだ。僕はこれが「見ざる」を主張するアイテムとして定着するに違いないと思っている。

僕の予想が当たっていれば、遠からず、眼鏡に Google Glass みたいなメディアを載せ、顔にマスクをし、耳にイヤホンを突っ込んでいる人々が世に溢れるに違いない。彼等は、もはや完全な「傲慢のエクスキューズ」を手に入れたのだ。しかし僕は、必ずそこを突破して「お前は傲慢なんだ」と相手に分からせる手を考えてやる。肩を叩くか、眼鏡を指で弾くか、足で蹴飛ばすか。まあ、法をおかさない範囲内で考えねばなるまいが。

2014/01/31(Fri) 12:25:16 | 日記
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Profile

T.T.Ueda
Tamotsu Thomas UEDA

茨城県水戸市生まれ。

横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。

その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。

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