まあいかにもお役所的な発想だけど

最近、僕の知人連中の間で、こんなものが話題になっている:

『平成23年度原子力安全規制情報広聴・広報事業(不正確情報対応)』一般競争入札に関して

……これが何かというのは、仕様書を御一読いただければお分かりかと思うのだけど、事業目的が:

ツイッター、ブログなどインターネット上に掲載される原子力等に関する不正確な情報又は不適切な情報を常時モニタリングし、それに対して速やかに正確な情報を提供し、又は正確な情報へ導くことで、原子力発電所の事故等に対する風評被害を防止する。
とあり、具体的な事業内容は以下の通りである。
  1. ツイッター、ブログなどインターネット上の原子力や放射線等に関する情報を常時モニタリングし、風評被害を招くおそれのある正確ではない情報又は不適切な情報を調査・分析すること。モニタリングの対象とする情報媒体及びモニタリングの方法については、具体的な提案をすること。
  2. 上記 1. のモニタリングの結果、風評被害を招くおそれのある正確ではない情報又は不適切な情報及び当庁から指示する情報に対して、速やかに正確な情報を伝えるためにQ&A集作成し、資源エネルギー庁ホームページやツイッター等に掲載し、当庁に報告する。
  3. Q&A集の作成に際して、必要に応じて、原子力関係の専門家や技術者等の専門的知見を有する者(有識者)からアドバイス等を受けること。また、原子力関係の専門家や有識者からアドバイス等を受ける場合には、それらの者について具体的な提案をすること。
  4. 事業開始から1ヶ月程度で30問以上、事業終了時までには100問以上のQ&A集を作成すること

「これは情報統制である!」とか、脊椎反射のような感じで言われそうだけど、ちょっと待っていただきたい。上の事業内容の骨子は、

  • インターネット上の原子力や放射線等に関する情報を常時モニタリング
  • 誤解を招くおそれのある情報に対し、正確な内容を伝えるための Q&A 集を作成・公開
の二つなわけだけど、これだけでは情報統制とは言い難い。「誤解を招くおそれのある情報」源への干渉がなされた段階ではじめて「情報統制」だと言えるわけで、この段階では、円滑な広報活動を支援するシステムの構築・運用、という域を逸脱するところにまで至ってはいない。

たしかに、Q&A 集の作成で「対抗」する対象として「風評被害を招くおそれのある正確ではない情報又は不適切な情報及び当庁から指示する情報」と書かれているところには、いささかうさん臭い匂いを感じないでもない。また、このシステムによって得た情報によって、得た側がどのように行動するのか、という問題……つまり運用のポリシーの逸脱という問題は考慮されなければならないだろう。

しかし、だ。そもそも「公開する」というのはどういうことなのか、皆さん、よーく考えていただきたい。公開する、ということは、その内容を衆目に晒すことである。そして、ひろく衆目に晒す以上は、それを誰に見せるか、ということに関して、その相手の選択をある程度放棄しているはずなのだ。

もちろん、HTTP というプロトコルや、コンピュータネットワークにおけるポートの仕組みを用いたフィルタリングを行うことは技術的には可能で、たとえば、不穏な内容を書いたのを ".go.jp" ドメインから見ることができないようにする、などということは、そう難しいことではない。しかし、それは同時に、.go.jp ドメイン内の誰かが、その晒している情報に触れるチャンスを失う、ということでもある。公開する以上は、それに付随するリスクを負うのは、これは当然のことなのである。これに関しては、もはや古典になっていると思うけれど、拙コンテンツ『WWW ページでの個人情報公開について考える』中、『見せるということ、見せないということ』に書いてあるので、これ以上ここに書く必要もあるまい。

たとえば、反原発の情報を記述・公開していたものが、プロバイダ等に圧力がかかって、アクセスできないようにされてしまった、とする。そうしたら、表現の自由に対する抵触であることを以て社会にその行為の不当性を訴えるか、日本の公的権力の及ばない海外のサーバで公開するか、いっそ WWW に拘らずに他のメディアで訴えるか……手は、いくらでもある。自分が世間に晒しているものが、自分の望まないような受け入れられ方をしているのならば、その不当性は自ら主張し、社会に認知してもらうしか術はないのである。そこを他者が保証してくれるべきだ、と、いかに手前勝手なことを言っても、たとえば前述した(国際法や憲法21条における)表現の自由の保障のようなものの域を越えては、何者も保障してはくれない。そして、社会においては、その公開し、主張するところの情報の正当性や文責のようなものを果たしているかが、当然問われるだろう。

たとえば「みなさんの子どもが、原発地域で育った女の子と結婚したいと言ったらどうしますか? / 年頃の女の子は、奇形児を産む可能性が高いから結婚できないのです。」とか「「放射線によって傷ついた遺伝子は、 / 子孫に伝えられていきます」と、柳澤桂子さん。」とかいうことを軽々に書く、ということが最近散発しているけれど、前者を書いた『ゆいわ の きほくのわ』関係者や、後者を見出しとして掲げた『クロワッサン』が、自らの主張の内実に関して、何がどのように問題があるのか、ということを、きっちり総括しているだろうか。むしろ「反原発のためなら何を言っても許される」という、実に尊大な驕りがそこに感じられてならない。そして、これらの言葉に傷つけられる人達に、おざなりの謝罪告知など何の救いにもならないのである。

こういう問題の一番根本にあるものは一体何なのだろうか。僕はこう思うのだ……人はしばしば、身辺の何人かの他人が自分に賛意を表明していることを以て、「自らが正しい」と安易に誤解する。そして人は、自らの言論や主張というものが、自らの望むように受容されるべきものだ、という驕りを捨て切れない。かくして、この二つの「未成熟な社会性」に依り縋って生きる自分達の正当性を確認するために、身辺の知人との相互確認に励むのである。

そして、その想定範囲外から思いもしないことを指摘されると、まるで頭の上に人工衛星でも落ちてきたように、その特殊性と理不尽さ(実のところ、それは特殊でも理不尽でもないことがほとんどなのだけど)を声高に主張するのである。僕達は、何事かを主張して社会の中に存在し続けようと思うならば、このような「未成熟」というエゴを振り回すことからは、もう卒業しなければならないと思うのだが、夏目漱石以来、この国の民衆のなかにそういう成熟がみられたことは、残念ながら一度もないのかもしれない。

先の資源エネルギー庁の入札がかかっているシステムは、正直言って税金の無駄遣いだと思うし、現政権が、このようなシステムのアウトプットに対してどのような干渉を行うか、ということに対しては、我々は常に警戒を怠らないようにしなければならないとも思う。しかし、このようなシステムの構築が即、言論弾圧の行為なのか、という話に関しては、僕は NO と言わざるを得ないのである。

2011/07/15(Fri) 11:52:08 | 社会・政治
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Profile

T.T.Ueda
Tamotsu Thomas UEDA

茨城県水戸市生まれ。

横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。

その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。

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