Chapter 2: 新約聖書にようこそ

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四つの福音

福音書に関して、ごくごく簡単な補足をしておく。福音書というのは簡単に言ってしまうと「イエスの生き様の記録」ということになると思う。福音というのはもともと「神さまのことば」という位の意味だけど、イエスの生き様はそれ自体が「神さまが人に遺してくれたもの」なので、こういう呼び方をするわけだ。

ケンも書いている通り、福音書には四種類ある。各々の福音書を書いた人(って言っても、実は福音書を書いたのは使徒ではないと言われているんだけどね)、つまり福音書記者の名前をとって、

の四つが新約聖書に収録されている。これ以外にも「福音書」と呼ばれる文書はいくつか発見されている(その中には「マグダラのマリアによる福音書」とか「ユダの福音書」なんてのまである……しかも、この「ユダ」は書簡記者のユダじゃなくて、イスカリオテのユダだったりする)のだけど、その多くはキリスト教で異端とされる思想体系、たとえばグノーシスと呼ばれる思想の下から出てきたものとみなされていて、聖書と一緒に宗教的に用いられることはない(カトリックでは「外典」として参考に用いられている)。

で、いま僕たちが読むことのできる四つの福音書の位置付けなんだけど、「マタイ」「マルコ」「ルカ」の3文書と「ヨハネによる福音書」は区別されることが多い。前3つは内容の共通する部分が多くて、ある文書に書かれているイベントに関して読むときに、他の2文書の上でそこに相当する記述を探して読み比べることが多い。だから、四つの福音書のうち、特に「マタイ」「マルコ」「ルカ」の三つの福音書を「共観福音書」と呼ぶ。新共同訳聖書をみても、ある共観福音書のイベントには、それに対応する他2文書の該当章節の番号が併記されている。

これに対してヨハネ福音書は、キリストの言葉がより強調して書かれているし、「イエスの愛しておられた弟子」(ケンは「だーれだ」って書いてたけど、これが使徒ヨハネなのは言うまでもない)やマグダラのマリアの存在に重きを置いた筆致になっている。対照的に、使徒トマスは、見当違いのことを言うくせに、キリストの復活を信じられない頭でっかち、みたいな書かれ方をしている(使徒トマスはキリストの死後のキリスト教布教とキリスト教思想に対して大きな影響を与えていたので、トマスやトマスを信奉する人々をおとしめるためにこんな書き方をしたんじゃないか、という見方もあるらしい)。まあいずれにしても、この福音書では書かれていないこと、あるいは逆にこの福音書にしか書かれていないこと、というのが結構多いので、その点だけは頭に入れておくといいかもしれない。

イエス、でしょう。救世主、じゃないでしょう

ここにケンが書いていることはなかなか鋭い。キリストの時代には、神としてのキリストの存在を受容させるために、キリストを「なぞらえる」ための「権威」というアイコンが必要だった。アイコンはキリストの思想を受容させるために機能したけれど、そのアイコンを超える上で大きな障害になったわけだ。キリストが旧約聖書(イザヤ書とか)に預言されたメシアだと主張すること(マタイ福音書などを読むと、キリスト自身は自らこう口にしないようにふるまっていたのがうかがえて興味深かったりする)が、旧約聖書や律法の教条主義的解釈を超えてキリストが何事かを主張するときに、

「メシアのはずがあんなこと言ってる、じゃあメシアって言ってたのは嘘なんじゃないの?」

という追及を生んだのは、だから否定できないことだと思う。

ケンが指摘する「キリストが神の子だ」というアイコンも、キリスト教内部においてですら大きな障害を引き起こした。だって、このアイコンを単一のものとしてそのまま理解したら「キリストと神は相違なる存在だ」ということになっちゃうし、実際そう認識した人も多かったのだ。

……とか、カトリックの僕が書くと、同じカトリックの人に異端だとか何だとか言われそうなんだけど、このことは歴史が証明している。初期のキリスト教宗派においては「神は複数の存在である」という考えは決して珍しいものではなかった。たとえば、キリストの説く「愛と慈悲の神」と、旧約聖書に出てくる「憤怒の神」は別の神さまのことだ、とかね(宗派によっては、神さまの数は30人、とか、いや365人いるんだ、とか、実はキリストは神さまの養子だった!という主張もあったんだよ)。このような「複数の神を信じる」キリスト教徒の考え方が体系化されたのが、たとえばグノーシス主義と呼ばれるものだったりする。

そして、このようなアイコンの呪縛とその混乱からキリストの存在を解放したのが、有名な「三位一体」(さんみいったい、神・キリスト・聖霊の三つが同一かつ唯一の神だと認識する見方)という概念なんだけど、これに関する議論はやめておこう。古典としての神学問答というのは山のようにあるから、興味があるのならそちらを読んでいただくべきだと思うし、それにケンも書いているように、イエスの説く世界的な慎みや共感、友愛の教えを知る方が、人にとってははるかに重要なことだと思うから。

なぜイエスが神さまよりいいか

メッセージの中身

これはイエス登場以前の、民衆の「神」のイメージと、イエスが説いた「神」のイメージがどう違うのか、ということなんだろうけれど……今まで旧約聖書を読んできて、旧約聖書の神さまってのが、ケンが言うところの「血みどろ」な存在だというのはよーく分かったと思う。こういう神さまのイメージを表すのに、しばしば使われるのが、先に挙げた「憤怒の神」とか、もう少しソフトに言うなら「荒ぶる神」というような言葉なわけだ。

旧約聖書の世界では、神の意志に沿うということは、それはそれは事細かく書かれた律法の規定を遵守するということで、ある意味非常に教条主義的というか、機械的というか、そういう行為だったわけ。細かく書いてあればある程、それを熟知する必要があったし、いくら細かく書いてあっても、それをどう解釈すべきか、という問題が生じてきて、それを遵守する上での「適切さ」を追求し、実践させる祭司が民衆に対する権力を握っていたわけ(これから新約聖書を読むと、ファリサイ人とかサドカイ人とかの神官・祭司ってのがあちこちで登場するんだけど、それのことね……もっとも、結局イエスに論破されちゃうことがほとんどなんだけど)。

イエスが革命的だったのは、「倫理的な行動の実践は律法を内包している」と主張したこと。要するに、ゴチャゴチャした律法とその適用例を熟知しているから偉いんじゃなくて、神にとってよい行いやよい態度に努めることが偉いんだ!と主張したわけ。これは旧来の権威主義を破壊する、まさに革命的主張だったんだけど、それ故に社会から迫害されたんだね……でもイエスはそんな迫害を超えて尚神さまに心を向けさせるための三点セットを用意していて、それが、罪の赦し・体の復活・永遠の命……というわけ。

プレゼンテーション

イエスのプレゼンはケンが言う通り、その寓話の使い方が天才的だったわけだけど、この寓話の使い方には実はふたつの側面があった……それは、分かりやすさと、分かりにくさだ。

これに関してはケンの書いている通り。食い付いて、噛みこなそうと思わせる魅力と、体制側の追及を巧みに避けるための抽象性(これはイエスの専売特許ではなく、例えば中国の思想家が王様に意見するときに、殺されないようにこれを駆使した……なんて話は、皆さんもご存知だと思う)を、イエスは巧みに使いこなした。今僕たちがこうやって聖書を読んでも、ん?何だ?と僕たちを食いつかせるものがあることは、おそらくこれから分かると思う。

イメージ

ケンが絵姿の重要性を指摘し、山形氏はムスリムの例を挙げてそれを否定している。僕がここで指摘しておきたいのは、全てのキリスト教宗派が絵姿を活用したというわけではないけれど、正教会やカトリックは歴史的にそれを最大限に活用し、今もその伝統を踏襲している、ということ。たとえば正教会ではイコン(聖像、カトリックでは「御絵(ごえ)」なんて言い方をする)が崇敬の対象となるし、カトリックでもキリストや聖人、あるいは聖母マリアの像や絵画が崇敬の対象になる(信仰の対象ではないので念のため……キリスト教では偶像崇拝は御法度なので)。これに対して、プロテスタントはそのような権威主義的、かつ偶像崇拝を惹起するようなものに対しては否定的だけど、聖書の無謬性(ここまででもこの言葉の虚しさが垣間見えると思うけどさ)という言葉を聞くと、聖書が聖像以上の信仰の拠り所になっているのを感じさせられる。まあ、イメージってのは、絶対条件ではないけれど、やはり必要なものなんだろうと思う。


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