このコンテンツの編者からのメッセージ

これは何?

このコンテンツは、

『誰も教えてくれない聖書の読み方』(ケン・スミス 著、 山形浩生 訳、 晶文社、 2001年)
を読む方のために作成しました。カトリック・プロテスタント・それ以外の別なく、聖書を読む上で持っていると非常に面白く、また先入観や恣意を鋭く指摘してくれる一冊だと思います。ぜひ皆さん、この機会に御一読下さい。

宗教とアメリカ、そしてファンダメンタリズム

『誰も……』は、ファンダメンタリズム(聖書根本主義)に対する痛烈な皮肉として書かれた本です。日本の方々は、この言葉に馴染みがないかもしれませんが、ファンダメンタリズムという概念は、アメリカという国を理解する上で必須と言うべき重要なものです。

世間のほとんどの人達は、アメリカという国が、色々な意味でオープンな国だと思われていることでしょう。しかし、宗教という切り口で言うならば、実際のアメリカという国は一大「宗教国家」であると言えます。え?そんなカタいイメージはないけれど……と思われる方、アメリカ大統領の宣誓の場面を思い出して下さい、大統領の手が置かれていたのは……そう、聖書です。

日本ではこのようなことはまずありえません。あれば当然問題にされるでしょう。しかしあのアメリカという国では、これが当たり前のことなのです。このことひとつだけをとってみても、アメリカが国家というレベルで宗教、特にキリスト教と深い関わりを有していることが分かるでしょう。

いや、先進国の代表であるアメリカに「政教分離」の概念がない筈がない!と思われる方もおられるでしょう。たしかに、アメリカは憲法の修正条項第1条(いわゆる「権利章典」)で政教分離を定めています。

Congress shall make no law respecting an establishment of religion, or prohibiting the free exercise thereof; or abridging the freedom of speech, or of the press; or the right of the people peaceably to assemble, and to petition the Government for a redress of grievances.

ここを読むと明らかなのですが、この修正条項第1条が禁止しているのは「国教の樹立」です。つまり、(組織としての)国家が特定の宗教と結びつくことが禁じられているのであり、(行為としての)政治に宗教を持ち込むことが禁じられているわけではないのです。もし後者を不用意に禁止してしまうと、今度はいわゆる信教の自由に抵触しますから、就任式で聖書に誓いをたてるというような宗教的な行為を大統領が行うことは、このアメリカ憲法における政教分離には抵触せず、信教の自由に基いた一権利として認められているのです。公人の演説が God bless America という一節で締めくくられるのをよく耳目にしますが、これもこういう論拠から、何も問題のない行為とみなされているわけです。

このような背景から、アメリカの世論や政治は、しばしばキリスト教由来の倫理観に非常に大きな影響を受けます。たとえば、進化論に関して、この21世紀のご時世であってもその教育の是非が問われる……これは、日本人にしてみたら実にバカげた話だと思われるでしょうが、アメリカ人にとっては実にシリアスな話なのです。実際、アメリカでは1925年のスポークス裁判以来、1987年のルイジアナ州授業時間均等法裁判まで、実に4件もの裁判で、この問題が争われています。スポークス裁判の頃は、進化論が人種差別主義者や優生主義者の論拠になっていた、という背景があったにせよ、進化論と二元論的概念として天地創造説が扱われる……アメリカは、宗教という切り口で見ると、しばしばそのような様相を示すことを、われわれは知っておく必要があるでしょう。

このようなアメリカで、社会への宗教的主張において一番熱心だとみなされているのが、「福音派」と呼ばれる宗派の人達です。ひとくちに「福音派」と言っても様々な宗派がその中に内包されますが、彼らに共通しているのが、「聖書に重きをおく」ということです。彼らは、聖書こそが唯一で絶対的な、神の意志を示すものである、と考えています。その中でも最もその傾向が強い派をファンダメンタリズムというのです。彼らは、聖書の記述に対してファンダメンタルでなければならない、という考えを持っているのでこう呼ばれるのですが、これを日本語で分かり易く言うならば……

「聖書に書いてあることは、聖書に書いてあるそのままに、一字一句違わぬ真理である」
ということになるでしょうか。

いやそんなこと言ったってそれはあくまで比喩として……とかお思いの方。違います。彼らは本当にそう信じているのです。聖書に書かれていることは過去に実際に起こったことか、未来に実際に起こることだ、と、彼らは心の底からかたく信じているのです。たとえば、「ヨハネの黙示録」に書かれていることは、来たるべきハルマゲドンで、それは将来必ずや到来するものなのだ、と、彼らは確信しているのです。実に恐ろしい話なのですが、アメリカ人の3割程の人がファンダメンタリストだと言われています。彼らは決してアメリカにおける少数派ではありません。

聖書の無謬性?

先のファンダメンタリストが主張・確信しているものは、箇条書きにすると以下のような感じでしょうか。

これらを信じている人々を、キリスト教における分類では「福音派」 (Evangelicals) と称します。ただし、福音派という括りの中には穏健な人々から急進派に属する人々まで入ってしまうので、その中でも特に厳密、かつ急進的な立場をとる人々を称して(特に聖書の無謬性への厳密さをその特徴とみなして)ファンダメンタリストと称するわけです。

しかし、本当にファンダメンタリスト達は聖書に関してファンダメンタルなのでしょうか。そもそも聖書は本当に無謬性のあるものなのでしょうか。ファンダメンタリスト達はそうだと考えています。聖書の中には、ケン・スミスが指摘しているように数多くの矛盾や未解決箇所が存在するのですが、それは人間側の解釈に限界と誤りがあるためだ……というのが、ファンダメンタリストの立場です。

彼らの主張が正当なものであるならば、ケン・スミスの指摘にファンダメンタリストは答えなければなりません。ケン・スミスの指摘する箇所に、皆が納得し得る解釈を与えられないとするならば、それは「人間側の解釈に限界と誤りがあるためだ」ということになります。なぜならば、それこそがファンダメンタリストの主張だからです。

ところが、どういうわけか、彼らはその矛先を己に向けることがありません。ディスペンセーション主義 (Despensationalism) に代表されるファンダメンタリスト達の見解は、旧約聖書とイスラエルに偏った世界観で、新約に説かれる神の愛というものを感じさせず、そのくせ黙示録を記述通りに解釈しようとして終末思想を膨張させていくわけです。

これはおかしくありませんか?バランス感覚を欠いていませんか?聖書の無謬性を確信しているようでいて、実のところ、己の歪みをそのまま聖書に投影しているだけではないでしょうか?そう……ケン・スミスが示すように。

もちろん、このような批判は、福音派にだけ向けられるべきものではありませんし、アメリカ人だけに向けられるべきものでもありません。カテキズムを暗記する勢いで読みふけることで「敬虔な信者」たり得ると信じて疑わないような「歪んだ」カトリック信者を、僕は何人も知っています。どういうわけか、ネットの世界でそういう「自称」敬虔な信者を目にすることが多いのですが、どうして彼らは、自らが生きることを以て信仰をあかしすることができないのでしょうか。いや、その責めは僕自身にも向くものだと承知しています。その上であえて書くのです。

だから、山形浩生氏の筆致を借りるならば、僕はこう言いたいのです:

「聖書、読もうぜ。ケン・スミスの指摘を、下らないとかつまらないとか斬り捨てずに、ちゃんとつきあって、その上で、聖書、読もうぜ」
それができなければ、僕達もファンダメンタリストと同じ自己矛盾を抱えて生きていくことになるのですから。

編者の立場は?

一応、僕の立場を明かしておいた方が皆さんも安心して読み進められると思いますので、ここに書いておきますが……まず、僕はカトリックの信者です。小学生のときに洗礼を受けて、もう30年以上カトリックの信者として暮らしています。父方の祖父、そして両親と兄弟は皆カトリックの信者ですから、小さい頃からキリスト教の世界には馴染んでいる方だと思います。

僕自身は、聖書の無謬性というものを信じていません。これは文献学的研究の結果などからも明らかなことですし、聖書が活版印刷の発明される遥か以前から筆写に次ぐ筆写で伝承・保存されてきたことをみても、聖書には無謬性がない、ということに関しては確信をもっています。また、この本に関しては、「この本を読んだ位で揺らぐ信仰なんて意味がない」(あくまで僕自身の話ですよ、あくまで)と思っているし、ケンの指摘はいちいちもっともだと思います。

キリスト教信者に限って、こういう指摘に対しては、まるで臭いものに蓋をするように、怠惰な対応に終始したり、「下らない」「信仰の躓きになる」などの言葉で片付けたりする人が多いのではないかと思いますが、僕はこのケンの本を読んだときに、彼の虚心坦懐に聖書を読んでみよう、という姿勢に強い共感をおぼえました。キリスト教の信者にこそ、この本は必要なんじゃないか、そう思うのです。ケンの指摘を受け止めた後に聖書を読み返してみると、旧約・新約の別なく、聖書というものが極めて人間臭いものであって、何千年という時間を経過し、そこに残留する記者や筆写した人のエゴを含めてもなお、面白いものとして感じられるのですから。

誰も教えてくれない『誰も教えてくれない聖書の読み方』の問題点

さて、このように手放しで『誰も……』を礼賛してきたわけですが、この本にいささか問題がないわけでもありません。ここではそれに言及しておこうと思います。

実は、今回この document を書くにあたって、原著を知らずにどうのこうの言うのも問題があるだろう、ということで、``Ken's Guide to the Bible'' を買いました。この本はペーパーバックが出ていて、2010年3月現在の定価が $ 7.95 です。国内の書店の洋書売り場で見つけるのは難しいかもしれませんが、Amazon などで注文すれば3週間程度で入手できます。

で、早速、山形訳と並べて読み比べてみました。さすがに現在の日本でも指折りの英語の使い手である山形氏だけあって、英語の訳自体には問題はないと思います。ただ、ヒューマンエラーがかなりあります。まず、ケンが引用しているのに山形氏が飛ばしている箇所が数か所あります。そして、ケンが言及していないのに訳本には引用されている箇所(つまり山形氏が訳本にない箇所を追加したということでしょう)が2か所ありました。訳者の山形氏はケン・スミス氏と親交があるそうなので、これらに関しては著者との交渉の上でこうしているのかもしれませんが、それに関する断りが一切ない、というのはいささか問題があるでしょう。これらに関しては、この文書では改めて訳した文章を適宜挿入してあります。

また、訳本を通読している段階から、聖書の章節番号の誤記が何か所かあるのには気付いていたのですが、そのほとんどが訳の段階での写し間違いと思われるものでした。これらに関しても、注釈を入れた上で本来の章節番号の箇所を引用し直しました。上記のものも含め、この種の間違いは合計で21か所ありましたが、全てケン・スミスの書いた通りにフォローできるように整えました。

そして、原著の巻末にある索引(「恥かしくさせられる聖書の疑問」、「聖書セックス索引」、「ボーナス中絶反対論者ホラー索引」等)もばっさり割愛されています。これらに関してはこの文書の最後に補遺として追加してあります。

これらのような問題点は、この本の価値を著しく貶める程のものではないかと思いますが、できれば何とかしてもらいたいところです。この手の本が改版する程部数が出るとも思えないので、無理な相談かもしれませんが……

「『誰も教えてくれない聖書の読み方』新共同訳ガイド」の使い方

このテキストは、『誰も……』の登場順に聖書の一節を引用しています。『誰も……』の訳者である山形浩生氏は、日本聖書協会の文語訳・口語訳の聖書を主な引用元としていますが、このコンテンツにおいては、現在最もひろく用いられていて、実際のキリスト教信者に一番馴染み深い「新共同訳」聖書から、改めて引用を行っています。この再引用に伴い、引用節が一部ずれている箇所が発生しましたが、ケン・スミスの記述を内容的にフォローするように、また、やや広めに引用をしてありますので、並行して読んでいただく分には問題は発生しないと思います。

また、新共同訳の聖書は、一部の差別的な記述……特にらい病などに関して……への対処や、文献学的により適切な表現に改める、等の理由から、旧来の聖書と異なった記述がされている箇所があります。このような記述に関しては、日本聖書協会の口語訳聖書と日本聖書刊行会(現 新日本聖書刊行会・いのちのことば社新改訳聖書センター)の新改訳聖書、文語版聖書(旧約は明治訳版、新約は大正改訳版)、欽定訳聖書、そしてファンダメンタリスト御用達の Good News Bible から並行して引用を行っております。

最後に、このコンテンツは「eBible Japan」と「DT Works クラウド型聖書検索」を使用して作成しましたことを追記し、両サイトに深く感謝する次第です。正直言って、これらのオンライン聖書検索サービスなしには、こんなことをする気にならなかったことでしょう。


Go back to the top
Go back to the index

Copyright(C) 2010 Tamotsu Thomas UEDA