誕生日

まあこの歳になるとどうでも良い話なのかもしれないが、昨日が誕生日だった。最近、誕生日というと「門松は冥土の旅の一里塚」という川柳が頭に浮かぶ。数え年の頃は門松が正月 = 歳を取る日のアイコンだったわけだが、この歳になると、そういうアイコンを目にすると、死というものに確実に接近しているのだと感じることが時々あるものなのだ。

まあ、でも、厄年から解放されたんだ、という安堵感はないでもない。本当に、僕にとって厄年というのは人生のどん底の時期だったからなあ……まあ今だって、完全にそこから脱し得たわけではないんだが。でもまあ、酒を飲む位のゆとりは出来てきたし、自分で料理を作るのにちょっと食材の質を上げよう、なんてこともできるようになってきた。

食材を贅沢する、ったって、別に霜降りの和牛なんか買う気はない。新鮮なもの、安全なものを買うだけの話なのだけど……一時は、買い物は見切り品の棚から始めるのが常だったものなあ。

銅谷さんの思い出

以前にも何度か書いているかもしれないのだが、僕は水戸という、焼夷弾爆撃で一面の焼け野原になった市で生まれ育ったこともあり、幼い頃から、戦争を体験した人達の話をあれこれ聞いて育った。その人達には、特に偏向した厭戦のイデオロギーがあったわけでもないし、逆に戦争を礼賛するようなこともなかった。戦争を体験した人として、極めて冷静に、自分がどういうことに遭遇したのかを話してもらった。それを聞いて育ったおかげで、今になっても変なブレ方をすることなしに生きていられるのだと思う。

この愛知県というところに来て、僕は一時期、この地の人々には何も危機意識なんかありゃしないんだ、と嫌気がさしていた。東海地震が来る、と言われてはや何十年。しかし、研究所の親会社の危機管理の講習会なんかに行かされると、会社の危機管理担当の奴が、平気な顔で、

「まあ、どうせ、地震なんて来やしませんから」

と言って笑い、聞き手もまたヘラヘラと笑う。そんなことに出喰わして、ほとほと嫌気がさしていたのだった。

あれは確か、今日と同じ、聖母の被昇天の日のことだった。教会でミサにあずかって、その後、恒例の「素麺サービス」で素麺を啜っていたときに、僕は初めて銅谷さんとちゃんと話をしたのだった。銅谷さんは当時、教区ニュースの編集を担当していて、その関係で U と一緒に仕事をしていた。U と一緒にいた僕とも、どちらからともなく話になって、そして、あの戦争のときの話になったのだった。

銅谷さんは当時学生で、名古屋市内に居たのだという。名古屋の空襲も体験していた。その銅谷さん……まだ学生だったそうだから、銅谷少年とでも言うべきなのか……が友人と一緒に居たときに、空襲警報が発令されて、共に近くの防空壕に避難したとき、

「そのとき、僕はね、どうしてかは分からないんだが、『ここに居ちゃいけない』と思ったんだ」
「ここに居ちゃいけない?」
「そう。どうしてかは分からない。でもそう思ったんだ」
「で、どうされたんですか」
「友達に、俺はここを出る、って言ったんだよ。そうしたら、友達は『何言ってるんだ。ここから出たら死んでしまうぞ。俺は厭だ。ここに残る』と言うんだ」
「……それで?」
「でも、僕はどうしても、ここに居ちゃいけない、そういう気がしたんだ。だから友達に『分かった。じゃあ俺は一人でここを出る』と言って、その壕を飛び出したんだ」
「……それで?」
「出てすぐに、後ろでドカーン、と爆発音がして、振り返ったら、さっきまで僕がいた壕が直撃弾を喰らって吹っ飛んでいた」

そして友人は亡くなり、銅谷さんは生き残った。しかし、銅谷さんと友人の間に、何がどうという違いがあった訳ではない。本当に、たまたま、銅谷さんは助かったのであって、事と次第によっては、全く逆のことになっていたかもしれない。そういう、何者にも分け難い境界の彼方と此方の差で、人が死に、生き残る。生き残った人だって、明日同様の目に遭うかもしれない。それが戦争なのだろう。人の命は、実に呆気なく、理不尽に奪われていく。銅谷さんはたまたま生き残った。その身体を擦るように行き過ぎた死の匂いを、僕に教えてくれたのだろうと思う。

銅谷さんとは無沙汰をしてしまい、その間に彼はがんを患い、聖隷病院のホスピスで亡くなった。もう3年程も経つのだろうか。でも僕は、この話を聞いたとき、「人は運命の前には無力ですねえ」なんて、愚にもつかない軽々な相槌を打った直後の、銅谷さんの言葉を忘れることができない。

「いや Thomas 君、それは違うぞ。人は微力かもしれないが、決して無力じゃない。無力なんかじゃないんだ」

無力という言葉で、己の弱さを誤魔化すな、正当化するな……そう、鋭く心を抉るようなその言葉は、未だに僕を叱咤しているような気がする。しかし、そういう言葉を貰えて、僕は本当に有り難いと思う。

サルでも分かる、文字コードと改行コードの歴史的経緯: 個人的経験とともに

僕がコンピュータを使うようになって、もう30数年が経過している。別に、だからと言って僕が Guru だという訳ではないのだけど、まあ世間で人が経験する問題には一通りぶちあたっているわけだ。

最近、某所である人の質問に答える機会があった。その方が、どうも文字コードとか改行コードに関して何もご存知でないような感じだったので、最初は愚痴のひとつでもここに書こうかと思ったのだが、僕の感じている不愉快さが増幅されるだけなので、それはやめておくことにする。その代わりに、僕の個人的経験を通して、文字コードと改行コードに関して書いておくことにしようと思う。

僕が日本語をコンピュータ上で本格的に扱うようになったのは、大学に入って PC98 を購入してからのことだった。大学に入った頃から、Macintosh というやつが大学生協に出現し、一種の憧れと妬みを感じながらも、そのあまりにすっきりとしたインターフェイスに羨望の眼差しを向けていたものだった。そのうち、大学3年になって、大学に NeXT が大量導入されて、僕は家で書いた文書を大学の NeXT で LaTeX を使って整形し、レーザープリンタでレポートを出力するようになったわけだ。そのときにぶち当たったのが、この文字コードと改行コードの問題だった。

ざっくり分けると、当時、コンピュータ上で日本語を扱う際に用いられる文字コードには、

と3種類あった(EBCDIC はどうした、とか言われそうだけど、僕はメインフレームはあまり使っていなかったので)。PC98 や Macintosh を使っている人は、それとは知らずに Shift_JIS を使っていたわけだけど、電子メールなどには JIS だった(これは今でも基本的には JIS であるべきなわけだが)し、ワークステーション等では EUC-JP を使うことがあったわけだ。

家でテキストファイルを書いてきて NeXT に持ち込もうとすると、まずはこの文字コードの問題に直面させられた。大学内で誰かが書いたユーティリティで、これの変換ができるようになったわけだけど、そのユーティリティの設定を見て、僕はこれが実は複雑怪奇な問題なのだと理解したのだった。

上の理屈で言うと、PC98 でテキストエディタで書いた文章を Mac に持ち込んでも、特に問題がないように思えるわけだけど、このやりとりをしていると、奇妙な現象に遭遇することになる。Mac で書いたテキストファイルを PC98 上で見ると、改行がなくなって、1行にずらーっとテキストが連なってしまうのである。どういうこと? と調べてみると、文字コードと別に改行コードというのがあって、これが、

  • PC98 等の Microsoft 系システム: CR+LF
  • Macintosh; CR
  • ワークステーション: LF
と、これまた3種類存在するわけだ。つまり、
  • PC98 等の Microsoft 系システム: Shift_JIS で CR+LF
  • Macintosh; Shift_JIS で CR
  • ワークステーション: EUC-JP か JIS で LF
……という状況だったのである。しかも、これらの間では EOF コードに関しても仕様が異なることがあったために、1980年代末から1990年代初頭にかけて、コンピュータで日本語を扱う際には、何か変な文字が行末やファイルの最後に付いていないかどうか、常にチェックする習慣が身についてしまった。

やがて Unicode が登場して、この手のごたごたから解放される……と皆思っていたのだが、そう簡単にいく話ではなかった。改行コードに関しては、Mac は UNIX 流の LF に変更されたけれど、Windows では未だに CR+LF が使われている。それに、昔書かれたファイルを同じシリーズ上のコンピュータで扱おうとしても読めない、という問題に人々が頭を悩ませることになった。

UTF-8 同士でも問題が生じることがある。たとえば僕は Linux 上では BOM なしの UTF-8 を使うことが多いけれど、この通称 UTF-8N と呼ばれるフォーマットでファイルを Windows 上に持ち込んで TeX で処理しようとしても処理できない。何らかの手段(たとえば一度 TeraPad で開いて UTF-8 でセーブしなおすとか)で BOM を付加しなければ、同じ UTF-8 と言えども共用できないのだ。

で、結局何が言いたいのか、というと、この手の話は残念ながらまだしばらくは縁を切れない話であって、道具としてコンピュータを使う以上、この問題から背を向けることはできそうにない、ということだ。私は認めない! とか、私には分からないから何とかしろ! とか言う人がいるわけだけど、そういう人々のために使ってやれる程、僕の生活には余分な時間は満ち溢れていないし、僕以外の人にしたってその辺りは変わらないだろうと思う。

自分が忙しい、と殊更に主張する輩に限って、他人の時間の貴重さには無頓着で、時には横暴ですらある。自分に差し迫った事情があるんだ、と言っておけば、他人が自分の良いように情報を与えてくれるんだ、などと、勘違いも甚しい横暴さを振り回す輩に、愚かにも僕は手を差し延べてしまったりするわけだけど、そういう人の何パーセントかでも良いから、検索でこういう文書を読んで、僕のような愚かな回答者の手を煩わさないでくれることを切望する。いや本当、暴言吐きたくなることもあるんですよ。ええ。

Profile

T.T.Ueda
Tamotsu Thomas UEDA

茨城県水戸市生まれ。

横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。

その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。

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