「SEALDs とキリスト教」という切り口を考える

僕は普段から、自分がカトリックの信徒であることを公言している。それが原因で不利益を被ったこと、というのを考えてみると……まあ、ない。利益を受けることもない……いや、ないこともないか。クリスマス・イブに仕事を早上がりする理由を聞かれて、
「教会に行くからです」
と答えると、素直に納得してもらえる。またまたぁ、誰か女の人とどうのこうの、じゃないのぉ? などと下衆な言葉で勘繰られて、ああ面倒くせぇなぁ、とイラッとすることは避けられているわけだ。しかしまあ、これ位のものである。

最近、SEALDs の主要メンバーがキリスト教系の学校、特にキリスト教愛真高等学校の出身である、という話が流れたわけだけど、この手の話が流れる度に、キリスト教徒のひとりとして、なんだかなあ、という思いをするわけだ。その前には……えーと、神社仏閣に油を撒いた、と評判の、アメリカ在住の医師52歳が運営しているのがIMMというキリスト教系(と自称する)団体だ、という話があって、僕も何人かの人に「キリスト教ってお清めに油を撒くの?」と聞かれたんだった。

ちなみに、キリスト教で、日本人が連想するお清めに近いニュアンスで撒くのは「聖水」、つまり水だ。油を額に注ぐ「塗油」というのはあるけれど、油を撒くなんて、少なくともカトリックでは聞いたことも見たこともない。どうも、「キリスト教」と付くと途端に「お前もあの手合いか」みたいな目を向けられるのがもう嫌で嫌で仕方がない。

日本人にとってより身近であろう仏教の場合を考えてみてほしい。仏教と呼ばれるものの中にだってとんでもないのがあるじゃないですか。古くは密教の立川流とか、現在は……まあ、ちょっと考えてみてもらったら分かると思うけれど。もちろん大多数の仏教徒や聖職者はちゃんとしている。この fugenji.org だって、名前で分かる通りお寺の所有するサーバなのだ。fugenji.org のオーナーであるOは、お盆の辺りになると、関西エリア中をクルマであちこち回って、古くからの檀家さんの法事を行っている。軽自動車をほんの何年かで乗り潰す位の過酷な日々である。そうやって、魂の平安のために身を削るようにして人生を献げている人は、キリスト教にも仏教にも、そして他の宗教でもちゃんと存在しているのだ。

まあ、人の話はどうでもよろしい。じゃあ Thomas、お前はどうなんだ、という話である。僕の場合はどうなのか……おそらく、僕の宗教観、そしてそれを人生に反映させる上での考え方というのは、他の信徒よりかなり厳しいと思う。いや、それを他人に誇ろうとしてそう言っているのではない。それはあくまでも僕の信条であって、他人がそれをどう見るか、ということに影響されるようなものではない。核が炸裂したり、疫病が流行ったりして、この地上に僕以外の人間が存在しない状況になったとしても、これは何も変わらない。何故って、それは僕と主の個人的関係が反映されるものだからだ。

もし、SEALDs のメンバーの言行に、キリスト教が影響を与えているのだとすれば、それはおそらく、

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。(マタイ 7:7-8, 新共同訳聖書から引用)
この辺りだろうか。俗に「求めよ、さらばあたへられん」と引用される箇所だ。いやそんなに単純じゃないでしょう、とか言われそうだけど、まあおそらく根っこはこんなものですよ、きっと。

まず、キリスト教の信者でない人はこう思うんじゃないだろうか:
「求めて与えられるなんて、そんな簡単なものじゃないだろう」
それに僕はこう答えたい:
「はい、私もそう思います」

そもそも、マタイ福音書のその後の部分を読めば、この文言の意味するところは明白なのだ。

あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。(マタイ 7:9-11, 新共同訳聖書から引用)
つまり、求める相手は天の父、つまり主なのだ。国会議事堂前でがなるんだったら、その前に祈れ、という話なのだ。このように、聖書の文言というのは、その周辺を読んでおかないと誤解しがちなものである。特にプロテスタントの場合、 "sola scriptura"、つまり「聖書のみ(に依る)」、という姿勢をとっているから、尚更その危険があるわけなのだが……

ちなみに、上の最初の引用部は "「" で始まっていたけれど、これが閉じられる部分を見てみると、

だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」(マタイ 7:12, 新共同訳聖書から引用)
まあ、聖書に限ったことではないけれど、宗教書ってのは大抵、「人にこうしてもらえ」って話ではなく「お前がこうすべきだ」って話をしているわけですよ。どうか、キリスト教の信者でない方には、この辺りをご理解いただいて、その上で「SEALDs とキリスト教」という切り口を眺めていただきたいのである。

ちなみに、このマタイ福音書7章ってのが、どういう風に書き始まっているかも引用しておこう。

「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」(マタイ 7:1-6, 新共同訳聖書から引用)
どうです?彼らがキリスト者だとしたら、ここをどのように読んでいるのか、あるいは読んでいないのか、興味深いところだと思うんだけどなあ。

2015/09/27(Sun) 12:44:04 | 日記
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T.T.Ueda
Tamotsu Thomas UEDA

茨城県水戸市生まれ。

横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。

その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。

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