空間喪失

今年、2010年という年は、プロで音楽に携わっている人にとっては記憶に残る年なのかもしれない。というのも、ソニーがテープを用いたデジタルレコーディングシステムの保守を打ち切るのが今年なのである。

ロックに代表される、マルチチャンネルレコーディングの現場にデジタル化の波が押し寄せたのは、1980年代初頭のことだった。1978年に 3M 社が開発したデジタルレコーディングシステム(The Digital Audio Mastering System = DMS)が、今はなき田町駅前交差点のアルファスタジオに設置されたのだ。このシステムで、YMO や CASIOPEA(なんか時々指摘されることがあるから書き添えておくけれど、バンドのカシオペアは何故かこう書くことになってるんです……僕もさすがにギリシャ神話のカシオペアを Cassiopeia と書くこと位は知ってるのでね)がレコーディングを行っている。

このシステムは 16 bit 50 kHz のサンプリングレートで 32 ch. の録音が可能で、それをマスタリングするための 4 ch. のシステムも付随していた。音質に関しては、日本では主に YMO のファンが中心となってこれを酷評しているのだが、それは YMO 以外の音楽を知らないからなのだろう、としか僕には思えない。僕のような人間にとっては、何と言っても Donald Fagen の "The Nightfly" のレコーディングにこのシステムが使われた、ということが記憶に鮮明だし、実際、"The Nightfly" は多くのレコーディングエンジニアがリファレンスと位置づけているのだから。

ただし、この 3M のシステムは、やはり機械的には無理のあるものだったと言わざるを得ない。当時入手が比較的容易だった1インチ幅のビデオテープを媒体に使えるとはいえ、そのテープ走行速度は毎秒 45 インチ、つまり毎秒 114.3 センチというとんでもないものだった。ヘッドやキャプスタン等の消耗は当然激しい。そしてこのシステム、デジタルで重要になるエラー訂正に弱いところがあって、現場ではかなり神経を使わされるシロモノだったらしく、登場から数年で姿を消すこととなった。余談であるが、現在動作する 3M のシステムは世界中探してもほとんどない状態らしく、当時このシステムでレコーディングした音源を抱えている人々は大変困っているのだそうだ。

3M 以後のデジタルレコーディングシステムとしては、三菱が中心となって提唱したProDigiと、ソニーが提唱したDASHが登場した。ProDigi システムによる録音例としては、松任谷由実の "ALARM à la mode"(三菱の X-800 シリーズが用いられている)が挙げられるけれど、業界標準はソニーが一手に担うことになる。

今回、これを書くためにソニーのデジタルマルチに関して調べていたら、1979年には既に PCM-3224 なる 24 ch. デジタルマルチが存在していたらしいのだが、いわゆる業界標準の流れを形成したのは、1982年に発表された PCM-3324 である。この PCM-3324 で録音して、PCM-1610 でトラックダウンする、というのがソニーのシステムで、ソニー傘下での音源制作がこのシステムで完全デジタル化されたのが1984年のことらしい。しかし、当時のデジタルメディアは非常に評判が悪くて、その悪評が払拭されたのは1986年の PCM-1630、そして1989年の PCM-3348 の登場以降のことである。

当時は、デジタルの音はとにかく薄っぺらいとよく言われた。これは AD・DA 変換とフィルタの特性に問題があったことと、トラックダウン〜マスタリングの過程での音圧管理(音の強弱を、人間の聴感に対して美味しいところにもってくる処理)という概念が未発達だったことに起因している。実際、この問題が克服されてからは、アナログ 24 tr. でのレコーディングは激減したのだ。

そして、1990年代末辺りから DigiDesign の ProTools が普及すると、一台数千万もの価格で、毎秒 30 インチ(毎秒 76.2 センチ)のテープ走行速度で消耗品扱いのヘッドを定期的に交換する必要のある PCM-3348 は徐々に駆逐されていく。音質の問題から PCM-3348 を使い続けてきたミュージシャンも、冒頭に述べたソニーのサポート打ち切り予告の前に、ProTools に移行していった。そして今年……おそらく今年以降は、過去の音源のトランスファー以外に PCM-3348 が用いられることはなくなるわけだ。

今までの話が、一体表題と何の関係があるのか、と思われる方が多いかもしれないが、実はこの ProTools の普及に伴って感じられるようになったのが、音場における空間を感じさせるものが失われた、という感覚なのである。いやそんなの単なる懐古趣味でしょう?と言われるかもしれないが、勿論そんなつもりで言っているわけではない。

たとえば……今、僕の iTunes に入っている、中島愛(めぐみ)という人の楽曲を例に挙げよう。この人は『マクロス F』や『こばと。』等のアニメで有名な声優さんなのだそうだが、僕は別にアニメマニアではないのでそんなことはどうでもいい。この中島愛氏のシングル『ジェリーフィッシュの告白』に入っている二つの曲(特に2曲目の『陽のあたるへや』という曲)とアレンジ、そしてそれを手がけた宮川弾という人物に興味があるから入手したのだが、この『陽のあたるへや』という曲は宮川氏のピアノと弦(元 G-クレフの落合徹也氏が主宰する「弦一徹ストリングス」が弾いているらしい)、フルート、金管(おそらくチューバ)のベース、ティンパニとスネア(元シンバルズの矢野博康氏が叩いているらしい……ちなみに宮川弾氏はシンバルズの Vo. だった土岐麻子氏の元夫なのだそうで)、あとはマリンバ、かな……大体そんな辺りでオケが形成されている。

こういう編成だったら、弦の響きの面からも、少しライブな(反射音とか残響音を感じさせる)音場を形成する……というのが、僕の認識なのだけど、このオケが、実に見事なまでにべたーっとしている。弦も木管も、もう空間じゃない。面上に共存しているようにしか聞こえない。これはどういうわけなのだろうか。

実は、このような「空間喪失」とも言うべき現象は、ProTools でレコーディングが行われるようになってから特に指摘されるようになってきたものである。じゃあ ProTools が悪いのか……というと、実はそういうわけでもない。たとえば僕は Cubase(レコーディングの現場で用いられている ProTools HD よりは大分音質は悪いけれど)でデジタルレコーディングしているわけだけど、この間公開した『地球はメリー・ゴーランド』:

の coda (大体 2:30 以降の部分)を(できればヘッドフォンで)聴いてみていただけるとお分かりかと思うけれど、かなり空間的には深い感じを出している。勿論、単純にリバーブを深くかけるだけではこうはならなくて、色々小技をきかせる必要はあるのだけど、HD レコーディングで空間の感じが出なくなる、とよく言われるのは、どうも違うような気がする。

おそらく、諸悪の根源は、現在の音楽が圧縮フォーマットで聞かれる頻度が高いことにあるのではないか、というのが僕の印象である。実は上の『地球は……』も、手元の WAV ファイルと上のフラッシュ(これの音声部分は 320 kbps の CBR MP3 フォーマットである)では空間描写が大分変わってしまっている。本当はもっともっと音場は深いんだけど、MP3 で圧縮がかかると、この音場を描写するのに重要な、高音域の情報が間引きされてしまうのだ。

この音源はカバーとは言え自分の音源なので、遠慮することなく、該当 coda の部分を20秒位、WAV と MP3 で比較試聴できるようにしてみた。

上の WAV(44.1 kHz / 16 bit)と MP3(320 kbps CBR MP3, winlame で作成)をヘッドフォン等で聞き比べていただくと、この違いは分かりやすいかもしれない。

このような空間処理は、もともとレコーディングエンジニアにとっては腕の見せどころだったのだけど、最近はトラックダウンまで自力で行うミュージシャンが増えて、その辺の処理の技術が稚拙な上に、そこで頑張って空間描写をしても、MP3 とか AAC にされたらどうせこうなっちゃうんだから……という事情があって、先に指摘したような「空間喪失」現象が頻発しているのだろうと思う。これは、一音楽愛好者としても、音楽を作るアマチュアの一人としても、とにかく哀しいことなのだけど……

2010/08/26(Thu) 13:09:36 | 作編曲・演奏・録音
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Profile

T.T.Ueda
Tamotsu Thomas UEDA

茨城県水戸市生まれ。

横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。

その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。

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