神様はコンビニエンスストアではない

「人事を尽して天命を待つ」という言葉がある。これはキリスト教文化が発祥の言葉ではないけれど、僕が神に祈るときには、この心境で祈っている。この言葉は実は非常に厳しい言葉であって、人事を尽さなければ天命はもたらされない、ということでもあるのだ。

最近、どうも、自分に都合の悪いことは「神様の御旨で何とかしてもらえる」と勘違いしている人が多いような気がする。それも、カトリックを含むクリスチャン全体の中で、こういうことを軽々しくも口にする人が多いような印象があるのだが、実際のところ、神様はコンビニエンスストアではない。そう簡単に、人が望むように、人の望むものをもたらしてくれるはずがないのだ。

そんなことはない!と言う人がいるかもしれない。じゃあ聞くけれど、この世のあまたの災厄は、どうしてその神の御旨でどうにかなってくれないのだ?戦争や貧困で、実に多くの人々が命を失っている。一見豊かに見えるこの国でも、ろくに社会的保護を受けられないまま、孤独に死んで腐乱した遺体が発見される人や、人間の勝手で捨てられて殺処分される犬や猫が、その数を数えることも難しい程存在する。そんな話はあまり聞かない?今年、僕の自宅の何軒か隣で、実際にそうやって亡くなった方がおられたけれど、その話は新聞にすら掲載されなかった。もはやそんな話は「ありふれた話」であって、メディアがニュースバリューを感じないから報道されていない、というだけの話で、そういう話は、確実に、僕らの身辺には存在しているのだ。

安易に神の救済を口にする輩は、おそらく「神義論」という言葉も、それが表す学問体系も、欠片程にすら知らないのだろう。もしその人がクリスチャンならば、そんな人はインチキクリスチャンの謗りを免れない。神の名を口にする資格もない、社会的に有害な半可通に過ぎない。

「神義論」に関しては、以前、『破綻した神キリスト』(この邦題は明らかに煽情を狙い過ぎているので、原題 "GOD'S PROBLEM: How the Bible Fails to Answer Our Most Important Question --- Why We Suffer"を直訳すると、『神の問題: 如何にして聖書は我々の最も重要な問――なぜ我々は苦しむのか――に答え損ねているのか』というところか)のレビューを amazon に書いたものがあるので、それをここに転記する。この本を読んだことのない方にも、神義論がどういうものなのか、ある程度御想像いただけると思うので。

人はなぜ苦しむのか。

最初に断っておくけれど、この本は、著者が直接標記の問いに答えるものではない。著者は新約聖書学の世界では著名な研究者で、この問いに聖書がどう答えているのかを見ながら、神と世界と苦しみの関係を探っていく。これは著者が言及しているように、ライプニッツが提示した「神義論」的問題であり、数百年の議論を経ても尚、我々を納得させる解は見つかっていない。著者は聖書の各文書の歴史に沿って、旧約時代の古典的神義論、預言的神義論、そして新約時代の黙示文学的神義論を、実際に人の世に存在した艱難辛苦をつきつけながら咀嚼していく。そして、著者は『コヘレトの言葉』のような諦観に至るのだ――「私の目に映るこの世界のありようは、世界に対する神の介入がないという事実を示している」(pp.28)。

僕はカトリックだけど、遠藤周作が『沈黙』で提示した「母なる神」を受容する立場をとっている。しかし、著者がイメージする神(これは「聖書が示す神」に出来るだけ忠実であろうとした結果なのだけど)はそんな妥協を許さない:「苦しむ私の傍らに立っている、だが実際にはほとんど何もできない神を信ずるというのは、神をまるで私の母か、親切な隣人のような存在に貶めてしまう行為だ。真に神をたらしめる行為ではない。」(pp.322)。人はこんなに苦しんでいるのに、神はなぜ沈黙を保つのか、神はその強大にして正義たる力をなぜ行使しないのか……この問いが、敬虔な福音派の信者にして、聖書の無謬性を示すために聖書学研究者を志した著者の行き着いたところである。この問いを、我々は蔑ろにすることはできないのだ。

この本は(邦題がイマイチなので)キリスト者が敬遠しそうな体裁であるけれど、キリスト者であるならば、是非御一読いただきたい。そうでない方にとっても、この本はキリスト教を知る上で大きな助けになると思う……苦しみの救済はキリスト教の一大トピックなので。

要するに、「神がいるなら何故世界は理不尽な苦しみに満ちているのか」「理不尽な苦しみに満ちた世界にあって神が造物主として存在し得るのか」という問こそが神義論的問題であり、それを考えることこそが神義論なのだ。たとえば遠藤周作の『沈黙』に、

主よ、あなたは何故、黙っておられるのです。あなたは何故いつも黙っておられるのですか
という司祭の呟きが書かれているけれど、神義論というのはまさにこういう問、そしてこの血を吐くような問に答えられるのか、という考察の集積なのである。私は神の救済を実感している、という主観に塗れた言葉など、この前には何と空虚なことか!神の救済を安易に実感している輩は、その実、神の代執行者を気取る自分の権能を正当化したいだけではないか。そんな安易なドグマなど吹き飛ばしてしまう程に、神義論というものはクリスチャンにとって重い問題なのである。

ここを読まれている方で、クリスチャンでない方は、神の救済を安易に語る輩にこれから出会ったなら、どうかその輩を信用しないでいただきたい。たとえば、あのマザー・テレサの遺した言葉を読んでみても、彼女は一度も、「救う」という言葉を使っていない。彼女は、救済が安易にもたらされるものではないことを骨の髄まで承知していたからだ。カルカッタ(現在のコルカタ)に彼女が作った施設の名前「死を待つ人の家」が、そのことを明確に示している。彼女は、死に瀕した人を救う、などという言葉を、かりそめにも軽々しく口にはしなかったのだ。上記引用文にも僕は書いているが、「苦しみの救済はキリスト教の一大トピック」なのだ。その成立当初から、現在に至るまでも尚、ね。

2010/10/20(Wed) 11:36:19 | 社会・政治
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T.T.Ueda
Tamotsu Thomas UEDA

茨城県水戸市生まれ。

横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。

その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。

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