何故僕が Twitter や facebook, LINE にハマらないのか

まず最初に断っておかねばならないのだが、僕は Twitter と facebook は自分のアカウントもあるし、使ってもいる。LINE はアカウントを持っていないし、今後持つつもりも一切ない。

そもそも話は今から20年程前にまで遡る。当時、僕は大阪大学の学生だったわけだけど、大阪大学というところは情報関連の研究の盛んな大学で、僕が学部の3年のときに、数百台の NeXT 社製ワークステーションで構成された情報処理教育システムが導入された。今の OS X にほぼ匹敵するシステム、しかもネットワークと 400 DPI のポストスクリプトプリンタに接続され、モリサワフォントが使えるシステムが、24時間使い放題、という状況になったわけだ。当時の僕はモリサワフォントの有難味が分からず、何だこの中ゴシック BBB って、とか言っていたわけだが、今考えるに、恐ろしく贅沢な環境である。

さて、このシステムの端末である NeXTcubeNeXTstation は、外部との流通は電子メールのみが可能だった(後に WWW と電子ニュースも使えるようになった)のだけど、阪大の豊中キャンパスと吹田キャンパスの間は回線で結ばれていたので、学内のどこかに居れば、学内の他の誰かとはネットワーク経由でやりとりをすることができた。まあ学生の考えることは昔も今もあまり変わらないのかもしれないが、nohup でプロセスを無理矢理常駐させることでサーバを動かして、いわゆるタイムライン型のチャットが行われるようになった。

僕は、寮暮らしなのをいいことに、このシステムの端末室に入り浸っていたのだが、このとき知り合った何人かの人々のことを今思い返してみるに、あの留年率の高さはちょっと異常なものだった。あそこに出入りしていても、自分の専門を大事にしている人達は、そのような踏み外しをすることはなかったわけだけど、早い話、あそこでのチャットに逃げ込んだいた人もいたわけで、そういう人達は当然の如く留年した。その中には、情報関連に新たな活路を見出していく人もいたわけだけど、そうでない人達は今頃どうしているのだろうか、と、ふと思い返すこともある。

僕の場合は、やはり自分の専門の方に行きたくて、その後キャリアを重ねたわけだけど、今にしてみると、あの頃チャットに費していた時間は、正直言って人生の無駄遣いだったと思っている。あの、日付が変わるまでチャットしている時間は、確実に他のこと……たとえば統計力学を極めるとか、金属相手に量子力学を適用するための勉強(これは磁性も絡むし、重い元素を扱うときには相対論的効果も絡んでくるから、ちゃんとやろうと思ったら大変な話である)をするとか、そういうことに使うべきだったのだ。

あの時期にコンピュータに習熟したんでしょう、と言われることもあるけれど、実際には、あのシステムを使い始めて1年後、大型計算機センターのアカウントを取得して、自分の研究室に Linux サーバを置いて、家や出張先からアクセスポイントを経由してリモートログインしてはごそごそやっていた頃の方が、得たものの質も量も高かったと思う。そして、チャットしていた時間と、今書いたような時間との決定的な違いは、自分の人生の糧をそこに積めたかどうか、ということである。

チャットというのは、そのときそのときのリアルタイムな自分の存在を、他者とのやりとりによって実感することができる。これは一見すると、他者とのつながりの拡大、というオープンなものであるかのような印象を受けるかもしれない。しかしそれは、結局はそこに目が向いている人がゆるやかなコミューンを形成していて、その中でのやりとりがタイムラインを構成しているだけのことである。たとえドアやついたてのない場所で人が集まって話をしていても、それは結局はそこに顔を合わせた面々によるクローズドなコミュニケーションに過ぎない。そこに人がいつでも入ってこられるとしても、何の前触れもなくそこに有益な人物が現われることはまずないのだから。

しかも、そこでのやりとりに費される時間は、結局はあるコミューンにおける他者とのつながりに縛られた時間であって、そのつながりが、たとえば顔をつき合わせてのディスカッションなどのような知的な広がりを持つことは、まず 100 % ないといっていいと思う。そんなことはない! とか言われそうだけど、だったら、両者における情報の交換量(≠流通量)を算定してみたらいい。ネットでリアルタイムで文字を用いてやりとりできる情報なんて、顔と目をつき合わせて、黒板やホワイトボードや紙を前にして唾を飛ばしながらディスカッションするのと比較したら、ハナクソみたいなものである。

いや、Twitter だったら world wide に広がって……とか言う人がいるけれど、じゃあそれを言う人のどれ程が、日本語以外の言語でやりとりをしているというのか。しょせん日本の Twitter のユーザなんて、9割以上がドメスティックなつながりを謳歌しているに過ぎないんじゃないの? とりあえずフォローして、それでおしまい、それが「つながり」だ、って、それは「つながっていること」で安心感を得ているだけでしょ?

時間、情報量、そしてその質も含めて、今のネットでのコミュニケーションメディアには、所詮は限界がある。本当にそれらを活用しているならば、その限界を熟知していなければならないと思うのだけど、Twitter や facebook, あるいは LINE を使っている人々から、そのような話を聞くことは、不思議な程に全くない。これは一体どういうことなのだろうか。

そして、これらのメディアに関して僕が前から何度も何度も指摘しているのが、発言者の一意性というのが磐石でない、ということだ、これに関しては、最近も橋本大阪市長の件とか吉野家公式アカウントの件とかが報道されたばかりだ。たかが乗っ取りにおいてでさえ、このように Twitter は脆弱なのである。

あまりナショナリスティックなことは言いたくないけれど、Twitter も facebook も、そして LINE も、外国の一私企業(LINE の場合はもう少し複雑なのだが)が提供しているサービスである。たとえば日本の政治家が、そういうメディアを発言の重要な場として位置付けるということが、僕にはどうにも理解できない。たとえば、自分で確実に管理しているサーバ上で公開しているタイムラインを Twitter にも流す、とかいうことならまだ分かるのだけど、日本の政治家で Twitter を使っている連中の中で、そうやって自分が掌握しているサーバで発言のオリジナリティというか、uniqueness というか……を確保している人がいるのだろうか? おそらく一人もいないんじゃないかと思うのだけど。

まあ、そういうお寒い状況を見るにつけ、僕は何か白けてしまうのだ。そして、それに使う時間をもっと、自分の人生において形を残す、「濃い」ものとして使いたいのだ。だから僕は、Twitter や facebook, LINE にはハマらない。そんな無駄遣いをしていられる程、僕の人生には余剰はないので。

2013/05/10(Fri) 11:34:27 | コンピュータ&インターネット
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T.T.Ueda
Tamotsu Thomas UEDA

茨城県水戸市生まれ。

横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。

その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。

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