我慢の限界

僕は、あまり他人に対してマナーがどうとかモラルがどうとか言う方ではないと思う。そういうものに対して懐疑的だし、盲信するつもりもない。そもそも、他人と同じようにふるまうことは、僕にとっては何も安心感を齎さない。だから、マナーとかモラルに対して、普段は無頓着で、時に挑戦的ですらあると思っている。

しかし、そんな僕でも、もう我慢の限界なのだ。何がそうなのかというと、僕の所属教会(直接リンク)における、いわゆる主日のミサの状況の、あまりのひどさに対して、である。

僕の所属教会は、中部地区におけるいわゆる司教座教会というやつで、この辺の地区の中心的な教会、とされている。そのせいなのかどうか分からないけれど、どうもこの人、信仰においてブッ壊れてるんじゃないだろうか、という人の集積場のようになってしまっている。以下、いくつか実例を挙げて書くことにしよう。

まず、この教会、何がひどいって、ミサの最中に皆がろくに歌を歌わないのだ。カトリックのミサにおける歌というのは典礼、つまり祈りの一部をなすものなので、歌わないというのは祈らないというのに等しい行為である。まあ、技術的な問題というのもあるのかもしれないけれど、下手なら下手なりに、心を込めて歌えばそれでいい。それ以上の何をも要求されることはないはずなのだ。

しかし、この教会の信者の多くは、歌わない。司教座教会の面目を保つためなのか、結婚式に熱心なためなのか、この教会にはパイプオルガンが入っていて、その伴奏で皆で歌うことになっているのだけど、皆口すら開かない。あまりの状況に、せめて俺位はちゃんと歌おう、と声を大きく歌っていると、周囲の人々に、まるで珍種の生物でも見るかのような目を向けられるのである。

会衆が歌わない大きな原因が、この教会で幅を利かせている「合唱隊」なるものの存在である。オルガンの鍵盤がしつらえてある楽廊で、主に老齢と言っていい年代の女性で構成されるこの「合唱隊」は歌っているのだけど、この人達は、何を勘違いしているのか、自分達の声をわざわざマイクで拾ってスピーカーで聖堂内に流している。グレゴリアンチャントの昔から、教会というところは人の声が響くように作られていて、そこで合唱するのにマイクを使うなんていうのは、隣の人に声をかけるのに拡声器を持つような愚行である。しかし、この「合唱隊」、そんなことは全くと言っていい程に気にもしないのである。

おまけに、この「合唱隊」、とにかく歌が下手糞でどうしようもない。特に迷惑なのは、ピッチが低いこと、それも四分音(半音の半音)分低いことである。この「合唱隊」には、一人、20代前半の女性がいて、この女性は学生時代にコーラスをやっていたとかで、この集団内では大手を振って振る舞っているらしいのだが、この女性は他人と声を合わせると必ずピッチが四分音分下がる。不完全だが絶対音感がある僕としては、これがもう苦痛で苦痛で仕方がない。幼少時に調音とかで絶対音感を獲得している人(カトリックの信者の中にはちょぼちょぼいると思う)などは、おそらく聖堂内にいるだけで耐え難い苦痛を感じていることが想像に難くない。

で、この「合唱隊」、ある古参信者の一家が隊の中で幅を利かせていて、この四分音女はそこの娘である。そういう立ち位置だから、マイクの前でガンガン先唱を歌う。そうするとどうなるか、というと、そういう輩が会衆をリードして歌っているわけだから、会衆全体がこのぶら下がった音程に慣れ、やがて自らその音で歌うようになってしまうのだ。丁度去年のことだけど、この僕ですら、多重録音でコーラスを録っていて綺麗に重ならず、あれーどうしたのかなあ、とチェックしたところが、低めにピッチをとるようになりかかっていたことがあって、慌てて修正したのだった。あの四分音女の存在は、本当に会衆にとって害以外のなにものでもない。

そして、このような技術的問題にもし目をつぶったとしても、尚この四分音女は罪深いのである。ミサの最中の「答唱詩篇」のところで、例によってこの四分音女は独唱をするわけだけど、どうも事前練習など一切やっていないらしく、歌詞を頻繁に間違える。ただ間違えるのもどうかと思うけれど、この四分音女、分からないところを勝手に歌詞を作って歌うのである。先に「答唱詩篇」と書いたけれど、ここの部分で歌われるのは旧約聖書の『詩篇』からの引用句、つまり聖書の文言である。それを勝手に作り変えてしれ〜っと歌うとはどういうことなのか。僕の情報網には、この四分音女がそうやって歌詞を捏造した場面を目撃した人の話が入ってきたけれど、この四分音女「舌を出してくすくす笑っていた」んだそうな。あまりに許し難い。有害この上ない。もう消えてほしい。ちなみにこの四分音女、なんと教師になったというのだけど、こんな教師に教わらざるを得ない生徒達が、もう気の毒で気の毒でならない。

そして、こういう勘違い連中が幅を利かせて、マイクとスピーカーで歌をがんがん流すものだから、会衆の多くは、自分達はもう歌わないでもいい、と思っているらしく、多くの信者は歌を歌わなくなってきている。これも許し難い話である。何度でも書くけれど、カトリックのミサにおいて歌わないということは、お祈りをしない、ということと同意なのだ。身体的な問題で歌えないのならまだしも、横向いてぺちゃくちゃ喋ったりできているんだから、声はちゃんと出せるらしい。でも、典礼の歌は、そういう連中の中では「人に歌わせておけばいい」もの、らしい。そんな連中と同じだなどと、俺は思われたくないんだよ。

ということで、日曜のミサで、僕は抵抗を開始した。典礼に関わる言葉も歌も、大きな声で明瞭にするように徹底している。最近は何人か「戦友」が現れた。やはり僕と同じように、この現状を憂慮している人がいないわけではないのだ。声でしか知らないその「戦友」達と、僕は毎週日曜日、孤独な、だけど信仰においては非常に重要な「抗戦」をしているのである。もう、我慢する必要など何もないのだ。

2011/06/13(Mon) 12:11:45 | 日記

Re:我慢の限界

読んでいて同じような教会があって少しうれしくなりました><^^私も教会のコーラスに入っていていじわるがあったり声が高くてうまくはもれないことがあったりでイヤになりました・・あとは気に入った人だけ聖歌隊にいれないとか最悪なおばさまもいる
し・・聖歌もお祈りですからみんなで歌って2倍のお恵みをいただいたらいいと思います^^
bernadette(2011/09/04(Sun) 20:41:49)
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Profile

T.T.Ueda
Tamotsu Thomas UEDA

茨城県水戸市生まれ。

横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。

その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。

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