戦争が始まったのかもしれない

イラン、米軍を報復攻撃 イラク駐留基地にミサイル―司令官殺害で本格衝突も (2020年01月08日11時18分, jiji.com)

現時点では米軍基地で死者が出たらしい、以上の確実な情報は出ていない。米兵数十人が亡くなった、いや亡くなったのはイラク人だけだ……等々。いずれにしても、イランが弾道ミサイルを打ち込んだことは事実のようである。

また、

イラン、米同盟国に警告 (2020/1/8 09:40, 共同通信)
「米国の同盟国各国の領土が米国による攻撃に使われた場合、イランの反撃の標的になる」とのこと。そんな中、日本は海上自衛隊の中東への派遣を強行するつもりらしい。おそらく、12月20日の安倍=ロウハニ会談で「(派遣の)意図は理解している」とのコメントを得たから、ということなんだろうが、もう状況は変わっているのだ。でもそれはシカトして強行する、と。まるで「名誉の戦死者カモーン!」とでも言わんばかりだと感じてしまうのだが……日本の平和の為の戦死者なるものがいてくれた方がいい、とでも思っているのだろうか。

いつの世も変わらない。ノブレス・オブリージュというものが欠片程もない状況で、自分は銃後に身を置いた者が若者を戦いに送り出すのだ。違うだろ、ジジイ、まずはお前から死にに行ってこいや、って話なんだが。

戦争の臭いがする

最近ここに書く頻度も大分減ってきて、なんだ Thomas は消えたのか、とか思われそうな気がしてきたけれど、いえいえ、ちゃんと生きております。近況報告をする気などさらさらないのだけど、少しはちゃんと書くべきものを書いておこうと思って、今キーを叩いている。

イラン革命防衛隊の「ゴドス部隊」(シーア派民兵の軍事教育等を行ってきた対外特殊工作部隊らしい)のカセム・ソレイマニ司令官が、バクダッドの空港近郊を車で移動中、米軍の無人航空機 MQ-9 の攻撃を受けて死亡した。色々な言われようで報道されているけれど、要するに暗殺されたのだ。

The New York Times の記事によると、この暗殺に至る経緯には頭を抱えるような心地がするものらしい。記事を見ると、

WASHINGTON — In the chaotic days leading to the death of Maj. Gen. Qassim Suleimani, Iran’s most powerful commander, top American military officials put the option of killing him — which they viewed as the most extreme response to recent Iranian-led violence in Iraq — on the menu they presented to President Trump.

They didn’t think he would take it. In the wars waged since the Sept. 11, 2001, attacks, Pentagon officials have often offered improbable options to presidents to make other possibilities appear more palatable.

いや、相手はトランプだから。オバマだったら思慮深く対応するかもしれないが、トランプ相手にそういう小技を使おうとしても、それはキ××イに刃物というやつだろう。実際、こうなっているわけなのだから。

ソレイマニ司令官はイランでは国民的英雄という扱いらしい。ハメネイ師との関係が非常に良好な人物だったということもあるだろうが、国全体が三日間喪に服するというのだから、その扱われようがうかがえるというものだ。イランは報復を宣言しており、欧米では #wwiii のハッシュタグが乱れ飛んでいる状況なのだが……日本は、はぁ、何やっているのだろうか。

安倍首相は年頭記者会見で、イラン問題においてリーダーシップを発揮するでんでん、と発言していたが、実際は何をしていたのか。

……ほー。何が一体リーダーシップなのだろうか。仮に先月末にロウハニ大統領と会見していたとしても、もしリーダーシップというものを持っているならば、弾丸ツアーでイラン訪問位するなら分かるけど、会食だ、ゴルフだ、引きこもりだ……ほー。

まあこんな感じである。何らかの衝突が起きる可能性は極めて高い。第三次世界大戦とまでいくかどうかは分からないが、第五次中東紛争に発展する可能性は低くはないと思う。戦争の臭いがするのだ。

迫害としての戦争体験

最初に書いておくけれど、私は日曜朝9時半のミサには行かない。もともとそんな習慣ではなかったのだけど、現在の所属教会に来るようになってから、そういうことになってしまった。ユダヤ社会からの教会の伝統として、日没後は翌日扱いになるので、土曜の夜のミサが日曜……すなわち主日のミサになることから、主日のミサとして土曜の夜に教会に行く習慣になってしまっている。その理由は、あの教会に行っている人々ならば何となく察しがつくと思う。「教会は罪人の集まり」というけれど、まあそういうことである。

しかし8月4日、朝9時半のミサが終わる頃に、カミサンと一緒に教会の信徒会館にいた。カトリックの教会は、毎年8月の6日から15日までを平和旬間と定めていて、それに先駆けて今日、ミサの後に戦争体験を語ってもらう講演会が行われることになっていたからである。今日の講演者、目崎久男さんの戦争体験というのは、ある意味非常に貴重なものだと思うので、ここに書いておくことにしようと思う。

目崎さんの一家は、太平洋戦争勃発前はサイパン島に住まわれていた。しかし、1940年代に入り、日米関係の緊張が増してくる中、米英と戦争になる可能性が高いという情報が流れるようになったため、一家で日本に戻ることを決めた。父親の職も内定したため、東京・小石川区(現在の文京区の西側に相当)に転居、区内の小学校に通うことになった。学友と遊んでいたとき、サイパン島に関する話などをする中で、米英と戦争になる、そうなるとサイパン島は戦場になるので、内地に引き揚げてきたのだ……という話をしたところ、友達が皆、へー、と感心するので、幼き日の目崎さんは得意になってあちこちでこの話をしていたらしい。

しかしこれはあまりに時期が悪かった。日米開戦前ではあったものの、日本では1938年に国家総動員法が制定され、日中戦争下における思想統制として近衛内閣が「国民精神総動員運動」を推進している時期であった。国民の間でも治安維持の意識が高まっていた時期で、目崎さんの話は程なく特別高等警察(特高)の知るところとなった。

目崎さんの父親は「不穏なデマを流す不貞の輩」ということで特高に逮捕され、そのまま一ヶ月間拘留された。父親はこの間苛烈な拷問を受け、家に返されてからもしばらくの間寝たきりの状態だったそうだ。その後、三ヶ月間の自宅謹慎ということになったのだが、これが一家の地獄の始まりであった。

この時代、食料品や酒、燃料等は、売り歩きや御用聞きで買うことが一般的だった。しかし目崎家には特高の係員が門前に立って監視しており、その状況で売り歩きや御用聞きの入れる筈がない。仕方がないので外に買いに行くわけだが、目崎少年が酒屋に行くと、「君は未成年だろう。未成年の者に酒など売れる筈がないではないか」と、売ってくれない。要するに特高の確信犯的嫌がらせで、近隣の商店がろくに応じてくれない状況になったわけだ。そして、収入源たる父親の仕事の内定も取り消された。

三ヶ月が過ぎた後は、更なる地獄が始まった。官憲こそ姿を消したが、近隣住人は彼らと一切口をきかなくなったばかりか、彼らによる迫害の日々が始まったのだ。家の壁には「此処は非国民の家」「スパイの家」との落書きがされ、ビラが貼られた。近隣の店では煙草も豆腐も、何もかも売ってくれない。何処からともなく家内に石、糞便、動物の死骸、火の付いた藁まで投げ込まれ、「非国民、死んでしまえ」と、ののしられる。そんな日々が続いたのだという。

目崎少年の地獄は家に留まらなかった。学校で目崎少年は「スパイの子」ということにされた。目崎少年は担任教師によって口に赤いテープを×字に貼り付けられた上、廊下に一時間立たされた。「サイパン」との蔑称で呼ばれ、非国民と罵られ、クラスの誰も彼と口をきいてくれなくなった。本当のことを言っただけなのに何故こんな仕打ちを受けるのか……しかし彼は誰にもこのことを訴えることができず、そのまま学校に行くことができなくなってしまった。

母親は半狂乱になり、もう一家皆で死のう、とロープを持ち出してくる程の状況だった。そんなときに、横須賀にいた父親の海軍時代の友人が、父親に三菱重工名古屋の仕事を紹介してくれて、一家は名古屋に移住した。幸いなことに、名古屋でこのことで追及されることはなく、名古屋の小学校……やがて国民学校と名が変わるわけだが……の教師も、これを問題視することはなかったという。目崎少年は救われた、かに見えていた。

しかし、彼の東京における問題はどうやら記録されていたらしいのだ。当時の学校教育は智・徳・体の三位一体の教育というのが志向されており、この中の徳育に対する評価を操行点という。日常の行動・態度・思想等の評価ということだが、この操行点が低いと人格的欠陥者としての扱いを受けたという。当時の操行点は優良可の三段階評価だったが、可の評価の場合、備考欄にその理由の記入が求められた。目崎氏は、おそらくこの備考欄に「治安維持法違反の処分を受けた家族である」旨の記載があったのではないかと推測されている。この記載はその後もずっとそのまま、学校教育における彼の書類に残っていたらしい。

やがて旧制中学に進学した目崎少年は、1944年、学徒動員でトヨタ自動車の工場に配属され、旋盤工として勤労奉仕を行う日々をおくっていた。皮肉なことに、当時の目崎少年は立派な少国民を自認するいわゆる軍国少年に育っていたそうなのだが、学徒動員中でも週一回行われる軍事教練を指揮する配属将校が、目崎氏の操行点に関する記述を見咎めたらしいのだ。

ある日の教練でいきなり「この中に根性のねじ曲がった者がおる。一歩前へ出よ」と言われ、匍匐前進をさせられ、「根性のねじ曲がった者は匍匐前進もねじ曲がっておる」と、木銃(銃剣術で用いる木製の銃)の銃床で殴り倒された。あるときはサーベル(配属将校は騎兵連隊の所属だったそうなのでいわゆる軍刀でなくサーベル風の拵だったのだろう)の鞘で頭を割られ、医務室で縫合されたこともあるという。救われたと思ったところで地獄が再燃し、それは敗戦の日まで続いたのだという。

これは余談だが、私の祖父は農機具製造の工場を経営していて、戦時中はこの木銃を製造していたことがある。そのため幼少の頃、祖母の家で日常的にこの木銃を触っていた(裏口の心張り棒にしていたので)のだけど、戦時中の木銃というのは着剣した三八式歩兵銃のサイズなので、まあデカい。長い。そして重い。三八式歩兵銃の木材部分はクルミ材だが、木銃は樫のような木でできていたと記憶している。いずれにしても、あんなものの銃床で殴られたら、下手をすれば死にかねない。目崎氏が受けたのは、そういう仕打ちなのだ。

講演の後、私は目崎氏に聞いた。戦後、東京に行かれることもあったかと思いますが、そのときはどのような御心境だったのでしょうか、と。目崎氏は「それはねえ……」と溜息をつき、こう話した。

「私は、昭和三十四年に愛知県の上級行政職員として採用されました。で、上級職員というのは、将来の幹部候補でありまして、普通は何も仕事しなくてもいいんですが、ただ、予算を獲得するとか、条例の制定、あるいは法律を県に有利なようにしてもらうにはどうしたら良いか、いわゆる本庁での交渉が主な仕事で、これで実績をあげると出世できるわけですが、私は、東京に行くと、なんかトラウマになって、なんか……口がうまくきけないというか……」

「中央官庁のお役人を相手にして、丁々発止とやって、勝ったぞぉ、と言って帰ってくるっていうのが上級職員の仕事だったわけです。ところが私は、なんか……はっきり言って、東京に行くと、夜、眠れないんです。なんか、いわゆるトラウマっていうんでしょうねえ。今でもそうです。東京に行くとどうも落ち着かない。東京恐怖症みたいなのが、染み付いております」

この後、「したがって、愛知県では出世もできなかったわけです」とオチをつけられたのはさすがだと思うけど、そりゃそうなりますよ。教会の人々は、このオチだけ聞いてゲラゲラ笑っていたけれど、この痛みを彼らは感じられないのだろうか。

かつて住んでいた土地の名を聞くとき

大学に入ってからの学部時代の4年間は、豊中キャンパスの外れにある寮に住んでいた。そして修士課程に進んでからは、箕面市の農家の納屋の二階に住んでいた。そこを出なければならないことになって、私は不動産情報を探し始めた。とにかく金がなかったので、とにかくどんなところでも良いから……と探した挙句、四畳、風呂なしトイレ共同、コインシャワーとコインランドリー付きで家賃14000円という物件を見つけた。

緑地公園駅の傍にあった不動産屋だったと思うけれど、そこが管理する物件ということで直接そこに行ったのだった。すると、同業の別の不動産屋のオッチャンがそこに来ていて、横で話を聞いていたのだが、

「兄ちゃん、それはあかんよ。そんな風呂トイレなし4畳なんて、今時の若い子が住めるとこちゃうわ。ちょっとワシも一緒に探したるわ」

と、そこの不動産屋の人と一緒になって、二時間近くもあちこちに電話をかけて探してくれた。しかし、なにせ先立つものがないのが現実で、結局その14000円の物件に入居することになった。

その物件は今も残っている。阪急千里線の千里山駅で下車し、千里線の北向きの線路に沿って数分歩いたところにある、薄っぺらい7階建のアパート。名前だけはメゾン千里山という豪奢な名前だが、まあ内実は上に書いた通りだ。千里山駅からひとつ南の関大前駅までの間は、その名の通り関西大学のキャンパスがあるし、千里線の終点の北千里駅まで行けば私の母校である阪大もある。だから、住んでいるのは大学生が多かったのだろうと思う。と思う、というのは、カタギな時間にこの建物にいることがまずなかったから。いつだったか、珍しく早い時間に帰ったら、青年が一人入口に座り、同じ位の年齢の女の子に髪を切ってもらっているのに出喰わしたのを、今でもよく覚えている。ひょっとしたら、関大生と美容専門学校の生徒のカップル、とか、そんな感じだったのかもしれないが。

千里山駅から出たところには踏切があって、その近くの角にはたこ焼の屋台がよく出ていた。甘辛く煮付けた蒟蒻を細かく切ったものが入っていて美味かったので、よく帰りに買って家で食べた。時々関大前の方に歩いていって、関大生向けの丼物の店で安い鶏丼などを食べるのが贅沢だった。関大生達のように青春を謳歌するみたいな立場ではなかったわけだけど、あれが私の青春の1ページなのかもしれない。

その千里山の名を、まさかこんな風に聞くことになるとは思いもしなかった:

交番襲撃、拳銃奪われる=都内30代男の逮捕状請求へ−26歳巡査重体・大阪
2019年06月17日00時51分

16日午前5時40分ごろ、大阪府吹田市千里山霧が丘の府警吹田署千里山交番前の路上で「警官が血を流して倒れている」と、近くの駅員から110番があった。同交番勤務の古瀬鈴之佑巡査(26)が包丁で胸などを刺され意識不明の重体となり、刺した男は拳銃1丁を奪って逃走した。府警は吹田署に捜査本部を設置。東京都内在住の30代の男が関与したとみて、強盗殺人未遂容疑で逮捕状を請求する方針を固めた。

捜査本部によると、事件前に空き巣被害を訴える虚偽の110番があり、交番の警察官2人が急行。古瀬巡査は1人残った際に襲われたとみられ、計画的な犯行の可能性がある。交番の防犯カメラに不審な男が映っており、土地勘がある30代の男とみて行方を追っている。

石田高久府警本部長は同署で取材に応じ、「拳銃を奪取されたことは極めて残念。不審人物を見掛けたら通報をお願いしたい」と話した。

交番は阪急千里線千里山駅前のロータリーに面し、当時3人が勤務。古瀬巡査は左胸など7カ所を刺されて交番前の駐輪スペースで倒れていた。包丁は刃渡り約15センチで、防刃チョッキの脇から刺された傷は肺を貫通して心臓に達していた。拳銃は回転式で実弾5発が入っており、つりひもの留め金具が外されていた。

交番の防犯カメラには午前4時15分〜同5時ごろ、不審な男が行き来する様子が映っていた。

事件前の同5時半ごろには、公衆電話から男の声で「家に帰ると室内が荒らされていた」と110番があり、交番の男性巡査部長(44)と男性巡査長(33)が、バイクで近くのアパートに急行。古瀬巡査も遅れて向かおうとしたところ、交番前で襲われたとみられる。

電話は隣の関大前駅構内からかけられていたが、実際に被害はなく、アパートの住人は事件と無関係だった。捜査本部は駅の防犯カメラなどを詳しく調べている。

その後、箕面の山中にいる容疑者が逮捕され、5発中4発の弾丸の残った拳銃も回収された。しかし……この事件、どうも根の深そうな事件だと思われる。

容疑者は精神障害者保健福祉手帳を持っていた、と報道されている。精神障害者保健福祉手帳というのは、身体障害者手帳のメンタル版とでも言うべきものだが、一級から三級までの障害等級が定められている。この中で三級に関しては、身体障害者手帳の場合よりも広い範囲への適用が行われる傾向がある。だから、たとえばうつや適応障害でどうにも暮していけないという人が取得する例も結構あるわけだ。しかし、今回の容疑者は二級の認定だったらしい。

二級ということは、先の三級とは大分事情が違ってくる。アルバイト先の責任者の会見におけるコメントから、容疑者は統合失調症である可能性が高いと思われるわけだが、二級の手帳を持っているということからは、決して軽い状況ではなかったことが推測されるわけだ。それに加え、バイトを休んでいた理由などからすると、最近の状況が悪化していた(それが病状としてのものなのか、病識が希薄であったために治療を中断していたせいなのかは判然としないが)様子もうかがえる。

私が特に強くひっかかるのは、容疑者が箕面の山に入り込んだ後も、登ったり下りたりを尋常でない回数繰り返していたという話、あとは逮捕後の彼の、

私のやったことではない。私の思うことは、病気がひどくなったせい、周りの人がひどくなったせい、ということ
という供述だ。まるで他人事のようなことを供述しやがって、と感じる方もおられるかもしれないが、私にはこの容疑者の語った言葉は、彼の中で意思や行動論理の統合が行えていない結果のものであるように思える。拙速に断じてはいけない事案だと思うのだ。

Profile

T.T.Ueda
Tamotsu Thomas UEDA

茨城県水戸市生まれ。

横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。

その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。

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