RADWIMPSのHINOMARUの話

RADWIMPSというバンドがある。『君の名は。』というアニメ映画のテーマソングである『前前前世』という曲がヒットした、今の若い人には人気のあるバンドなのだけど、このバンドの曲が、今年のフジテレビ系のサッカーテーマソングに採用された。『カタルシスト』という曲で、6月6日にCDもリリースされているのだが、このCDの2曲目として収録されている曲が物議を醸している。

その曲は『HINOMARU』というタイトルの曲なのだが、まずはこの『HINOMARU』の歌詞をここにリンクしておくので、御一読いただきたい……で、皆さん、この歌詞を読んでどう思います?まあ、当然、リベラルから激しい抗議が沸き起こっているわけで、「HINOMARUに抗議するライブ会場前アクション」などというのも立ち上がっているわけだが、これらに関して、ここに私見を書いておくことにする。

私はこの騒ぎを知り、まず上のリンク先で歌詞を読んだ。皆さん御存知かもしれないが、私は拙いながら自分でも音楽をやっているし、いわゆるオールディーズから1980年代にかけてのアメリカと日本の音楽にどっぷり浸って生きている。洋楽を聴くことが多いのもあって、あまり歌詞に固執するつもりもないのだが、この歌詞は、たとえば70年代、80年代の日本の音楽のように抽象的に叙情を語ったものではないし、明らかに歌詞としての意味を持たせているとしか思えない。だから歌詞を読んだわけだ。

そしてふと思い出したのが、北杜夫の話である。北杜夫はデビューした頃に三島由紀夫とパーティーで一緒になり、三島が「丁度」を「てふど」と書いているのを「あれはおかしいですよ」と指摘(「ちやうど」だよね、確かに)し、三島を激怒させたことがあったらしい。そしてその後、北が『白きたおやかな峰』という山岳小説を発表したとき、これに三島が噛み付いたのだそうだ。

三島はかなり手厳しかったようで、文学的格闘をせず、ただ山という存在を提示しただけに過ぎない……というような批判を私信として北に書き送ったりもしているそうだが、この三島の批判でおそらく最も知られているのが、この小説の題名に対する批判である。三島はこの『白きたおやかな峰』という題名が「文語と口語が入り交じっている」と批判した、というのだ。

なるほど、確かに『白たおやかなる峰』か『白たおやか峰』かのどちらかならばその意味で「正しい」。しかし北は、人を寄せ付けない厳しい存在としての山のイメージを「白き」、そして北の本領である、感傷的で幻想的な文学的風景を「たおやかな」という語感に込めたのではないかと思う。だから、これは文学的な意味において必要な混同であったのだろう、と、私は思うわけだ。

いや、これを思い出したのは、単純に『HINOMARU』の歌詞で文語と口語が入り交じっているからなのだけど、でもこの詞は酷い。文学的意味なんてはっきり言ってないと思う。自分に「御」とか使ったりして、もう無茶苦茶だ。これはもう取ってつけた、どころか、拾って並べた、としか言い様がないと思う。そこに統辞なんて意思は欠片程にも存在するとは思えない。そりゃあ文語も口語もごちゃ混ぜになるよな。当然だけど、ここに思想も信念も何ら感じられないのだ。

いや、同情の余地はあると思いますよ。サッカーのタイアップが来た、どんな曲を書くか、という話になって、会議が開かれる。それも、レコード会社、テレビ局、制作会社、広告代理店辺りの人間も同席するような会議だ。そこで市場調査の結果をもとに対象層の分析、その層に訴える為のコンセプトが練られ、はい、この仕様でいついつまでに書いてね、って話になる。このバンドの中高生、大学生辺りのファンには分からないんだろうが、今の商業音楽はそういう風に制作されるものなのだ。

おそらく、世間の人達は未だにロックというジャンルに幻想があるのだと思う。そこに属するバンドやミュージシャンは、ロックの魂のもとに音楽と向かいあっていて、そこから世に出る音楽は皆純粋な思いの結果なのである、と、いい歳した大人であっても(いや、あればある程、か?)そう信じたくなるのかもしれない。じゃあ、実際のミュージシャンはどう思っているのか。ここで挙げたいのが、山下達郎という人である。彼はミドル・オブ・ザ・ロードとでも呼ばれるべき音楽で有名な人であって、商業音楽に数多く携わりながらも自分の音楽への姿勢を崩すことがなかった……ということに疑いをさしはさむ人はおそらくいないと思う。彼が、サンボマスターの山口隆氏と雑誌の企画で対談したときに、こんなことを言っているのだ:

心は売っても、魂は売らない」それが、この商売の根幹なの。すべての芸能、すべてのコマーシャリズムというのは、心のどこかのパートを売らなければならない。問題はその中でいかに音楽をつくる上でのパッションや真実をキープできるか。ただの奴隷スレーブではなくて。モノを作るというのは、常にそういう問いかけがある。
山下達郎という人は、特に70年代のソロで売れなかったときに、CM音楽を山のように手掛けていた人で、ファンの間では有名だが、あのイチジク浣腸のCMソングも作っている。売れなかった時代に制作やディストリビューションのシステムを徹底的に学び、新作のリリースの際には自ら業者向けの説明会でプレゼンまでやるという、そんな人である。その山下達郎のこの言葉は、実に重い。商業音楽というものは、それでオアシを戴くものである以上、そう簡単にしてピュアで片付けられるようなものではないのだ。

RADWIMPS の方に話を戻そう。これは私の想像なのだけど、CDで2曲出すんだから、ひとつはこれまでの対象層向け路線の延長線上で、もうひとつはよりサッカーファンの男性や高年齢層にも向けたものを、という話になったのだと思う。こういうときに会議ではエビデンスを求めるわけだが、おそらくそこで提示されたのは椎名林檎の『NIPPON』だったのだろう。今回の『HINOMARU』は、もうあからさまに『NIPPON』を念頭に置いたアプローチだろうとしか思いようがないのだ。

しかし、椎名林檎のように、ぎりぎりの巧妙なところを狙うことはできなかったのだろう。いっそタイアップなんだから外部の作家に頼めばよかったのに、おそらくはバンド色を出す為(と、おそらくはバジェットの問題……今の音楽制作費ってのは恐ろしく少ない)に、いつも曲と詞を書いている人物に押し付けられ、彼は書き慣れないコンセプトに合わせて、あちこちから拾ってきた言葉を繋げてでっち上げた、と。その挙句がこれだ。

曲と詞を書いた、vo. の 野田洋次郎氏が、何か妙な謝罪めいた tweetを出しているけれど、本人としては正直言ってもう踏んだり蹴ったり、という心境なのではないか。作らせた側は後ろに隠れてやりすごそうとしているんだろうが。

私はこの曲の存在を否定する気は毛頭ない。興味のある人は、お金出して買って聞けばよろしい。先の「HINOMARUに抗議するライブ会場前アクション」のtweetを見ると、

RADWIMPSの『HINOMARU』に抗議し、廃盤と2度と歌わない事を求めるライブ会場前行動
を行う、などという話になっているようだが、これは明らかに蛮行としか言いようがない。ただし、だ。私自身は、誰にどう薦められようが、死んでも、こんなクソみたいな代物に金を出すことも、自分の人生の時間を費して聴こうという気になることもありそうにない。これは私にとって音楽として鑑賞する価値を何ら持たない、本当にクソみたいな代物に過ぎないし、私の心の何一つ、引き付けられることはない。ただし、あくまでこれは個人的な話、つまり私にとっての価値の話である。文学的な、そして民族思想上の観点からの価値に関しては、客観性を以て「ない」と言えそうだけど。

初歩の論理学

3年という短い間であったわけだが、僕は国家公務員だったことがある。途中からは「みなし公務員」という妙な立場になっていたわけだが、身の回りにいたのは研究者だけでなく、公務員試験を受けて入ってきた人達も多かった。彼らの多くは研究に従事し、学位を得て、独立した研究者になっていった人達だが、中にはいわゆる技術官僚とでも言うべき方向に向かう人達も存在した。とりわけ当時の僕とは随分と違うスタンスの人達で、何やら見ていて複雑な気分になったのを覚えている。

彼らに共通していたのは、自分の意志だけで大きなことを進めることは決してない、ということ。これはとにかく徹底していた。何か公言を憚られるようなことが行われるとしても、そこには必ず根回しや下地作り、ロジックの準備が伴った。それを見ていただけに、それだけ上の位にあったとしても、官僚が自らの意志で指示を出し、たとえば森友問題のようなことをやらかすことはまずないと言える。

あれが官僚だけで閉じた意志決定構造の中から実行に移されたものではない、というのは、それを推進する上でのエビデンスとして主張された材料を見ても分かるだろう。あそこで「〜さんの意志」「〜さんの意向」というフレーズが出てくる時点で、官僚はそれをエビデンスとして主張しているのであって、それを主張させる側、もっと分かりやすく言うなら「忖度させる側」の意志があってこそのそのアクションなのである。

しかし、世間で森友問題や加計問題に関して官僚の暴走に過ぎない、と思っている人達は、おそらくそういう組織の力学以前に、実に単純な判断基準に従ってああいうことを信じ込んでいるのだろうと思う。「マスコミの言うことは信じられない」という、おそらくはただこれだけの理屈である。

ここに一人の人がいたとしよう。この人物は嘘をつく。しかし、この人物が常に確実に嘘しか言わないのであれば、この人物は世間の大概の人よりも尚正直な人物である。仮に論に上っているのが二元論であるならば、この人物の言っていることの反対が常に必ず真なのだから、こんなに正直な話はないのである。

しかし、実際の嘘つきはそう単純ではない。彼らが邪悪であるのは、彼らの言うことが常に嘘だから、ではないのだ。彼らの言うことがもっともらしいけど、それが本当か嘘かが分からないから、なのだ。嘘つきの言う目に張っても、あるいはその裏に張っても、それが当たりである保証はない。だからこそ嘘つきは厄介なのだ。

メディアは嘘を報道してしまうことがある。それは彼らの能力不足や情報量不足が原因であることがほとんどで、世論をある方向に誘導しようという程の根気も執念もそこにはない。しかし、「メディア嘘つき論」の信奉者はそう信じ込んでいるように見える。そして、彼らの言うことを排除しさえすれば真相に迫ることができると信じているように見えるのだ。

しかし、初歩の論理学、いや、それ以前の問題だと思うんだけど、ある集合全体集合Uの中に、「真相たる集合」Aと「メディアが報ずる集合」Bがあったとき、A⊅B を保証するものは実は何もないのである。実際には A=B かもしれない。メディアが嘘つきであったとしても、こうなる可能性は少なからず存在するわけだ。つまり、メディアの裏に張っておけば OK、というのは、およそ非論理的だとしか言いようがないのだ。

しかも、そこの判断を、いわゆるまとめサイトや、twitter 上のある特定のID から発信される情報に依拠している人の多いこと!結局自分では何もマトモに判断していないわけで、もうはっきり言ってお話にならない。しかし、そういう人々にここに書いたようなことを言っても、残念ながら彼らは自分の目を閉じ、耳を塞いでしまうんだよね。まるで子供が「わー!聞こえなーい!」とかやるようにね。なら黙ってろって話なんだが。

Profile

T.T.Ueda
Tamotsu Thomas UEDA

茨城県水戸市生まれ。

横山大観がかつて学んだ小学校から、旧水戸城址にある中学、高校と進学。この頃から音楽を趣味とするようになる。大学は、学部→修士→博士の各課程に在籍し、某省傘下の研究所に就職、その2ヵ月後に学位を授与される(こういう経緯ですが最終学歴は博士課程「修了」です)。職場の隣の小学校で起こった惨劇は未だに心に深く傷を残している。

その後某自動車関連会社の研究法人で国の研究プロジェクトに参画、プロジェクト終了後は数年の彷徨を経て、某所で教育関連業務に従事。

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